Shoshi Shinsui

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頭山満直話集

政府監視人、頭山満。 回顧談的一代記。

伝説化、脚色されがちな頭山の、稀少な直話記録集。

ボース救出事件をめぐるボースと内田良平の直話併録。

《私は無精者で、自分の事を話そうと言うて話した事はない。七、八年前、玄洋社の者が、書きたいから話をして呉れと言うたのを書かせなかった。これまで、雑誌や何かの本に出た私閲歴に関した話というのは、大抵また聞きじゃろう。……ま、そうじゃ。これが、自分で自分の事を語る初めてじゃ。》

   


◎品切→ 本書と 『頭山満言志録』 との合冊版 『頭山満思想集成』 刊行中 (クリックで移動します)



* 姉妹版『頭山満言志録』もあります。 こちらのページへどうぞ。




著者 頭山満談 薄田斬雲編著
書名 頭山満直話集
体裁・価格 四六判上製 288p 本体価格2800円(税別)
刊行日 2007年1月30日
ISBN 978-4-902854-25-1 C0095


◆著者紹介◆

頭山満 (とうやま・みつる)



明治・大正・昭和期に活躍した在野の国士。筑前玄洋社のシンボルとして著名。「国家主義者、政界の黒幕、大アジア主義を唱え大陸進出に暗躍した右翼の巨頭」と紹介されることが多い。明治10年内戦の時代、西欧化の圧力の中で、内政的問題として民権論を、対外的問題として国権論を課題に活動を始め、西欧植民地主義に対抗するアジア復興の立場から、中国民族革命志士との連携等、東アジアの国際政治に動く。在野の立場で一貫しながら国内政界にも大きな影響力を長く持ち続け終生活動した。存命中はかなりの人気を博したが、戦後その位置づけは一転。活動の性質からして事績を確かめるのは難しいが、主な略歴は以下の通り。

(事績が詳細に記されている代表的出版物に『頭山満翁正伝(未定稿)』昭和56年葦書房刊がある。同書は、昭和17年の頭山満米寿を記念して翌年に発足した「頭山満翁正伝編纂委員会」による原稿を出版したものである。当時出版がならなかったのは、同書「跋」に記されているところを引けば、委員の責任者が「目を通し、筆を加えて、原稿を岩波書店に渡されたのだが、岩波の神田工場が戦禍にかかって、その原稿が焼失してしまったとか」の事情による。後年控えの原稿が見つかり葦書房版として日の目を見た。)

安政2年4月12日、筒井家第四子三男として福岡に生まれる、命名乙次郎。後に八郎、さらに満と改名。号は立雲。明治4年、高場塾入門。明治6年、頭山家と養子縁組(19歳)。明治8年、矯志社に加盟。明治9年、君側の奸の一掃、国政の刷新を企図する西国諸叛乱の状況下、大久保暗殺、政府転覆意図の嫌疑で収監、拷問を受け翌明治10年放免。同年末、向浜塾を起す。明治11年、大久保暗殺を機に土佐に板垣を訪い蹶起の意を糺すが、動き得られず。明治12年、向浜塾を閉じ向陽社を起し、国会開設請願のため筑前共愛同衆会を組織、年末、鹿児島の西郷旧宅を訪う。翌年愛国社国会期成同盟会と改称、東京牛込左内坂に移住、東北視察の旅に出る。明治14年、向陽社を玄洋社と改称。明治17年、甲申の変失敗で亡命の朝鮮独立党首領金玉均と邂逅し援助。明治18年、結婚(頭山31歳、峰尾夫人16歳)。この頃、杉山茂丸と邂逅、以後、死に至るまでの親友関係。明治20年、『福陵新報』創刊。明治22年、大隈外相による条約改正を阻止するため、閣僚を訪問し膝詰談判を行なうが、最後は来島恒喜による外相爆撃にて条約改正阻止。明治25年、選挙干渉運動。明治30年頃からの孫文と宮崎滔天の接触を機に、頭山・犬養毅らと中国革命志士の連携始まる。明治44年、辛亥革命勃発に際し犬養らと中国に渡り孫文と談義。大正2年、第二革命失敗で亡命の孫文に隣家を世話。大正4年、亡命中のインド独立運動志士ボースの保護に尽力。大正6年、袁世凱死去後の段祺瑞内閣成立に際し、頭山らの日支国民協会援段政策反対決議。大正10年、皇太子渡欧延期上奏文(翌月皇太子渡欧)。昭和4年、孫文移霊祭への招待を受け犬養らとともに霊柩に告別。昭和10年、頭山・杉山締交50年の金菊祝賀会。昭和19年10月5日逝去(90歳)。


薄田斬雲 (うすた・ざんうん 1877-1956)

本名貞敬。小説家、伝記作家。東京専門学校(早稲田大学前身)文学科選科卒。京成日報記者、早稲田大学出版部編集委員を経て、小説・戯曲等を自然主義的時流の中で発表。後年、歴史や国家社会への関心を深め、人物伝等を著す。




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