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小林聡幸著 『シンフォニア・パトグラフィカ――現代音楽の病跡学』 書評全文転載特集ページ

◎ こばやし・としゆき/自治医科大学精神医学教室
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● 馬場存氏 (東邦音楽大学)

● 松浪克文氏 (虎の門病院精神科)

● 山内美奈氏 (愛媛県立南宇和病院)





◎馬場存氏 (東邦音楽大学) 評

音楽は「感情の言語」と称されることがある。どの程度本質的かは別にしても、音楽の一側面を象徴しているのは確かであろう。マイヤー(Meyer L.B.)は「将来のコースがわからない状態が始まると、それを明らかにしたいという強い心理的傾向が生じ、それは直ちに感情になる」ことを指摘したうえで、「日常の経験では、傾向の抑制によって生じた緊張は解決されないことが多く、そのような緊張は、無関係な出来事の洪水の中にまぎれてしまうのみである」が、「音楽では、同じ刺激、すなわち音楽が傾向を引き起こし、その傾向を抑制し、さらに意味のある解決をもたらすのである」として、音楽が人間の感情を励起する過程を論じた。このプロセスの基盤の一つはたとえば属7の和音の主和音への解決であり、そこに下属和音、代理和音、転調や形式論的要素などが組み合わされて、豊かな音楽作品が成立する。しかしこれは調性音楽に限定されるので、調性を脱却した音楽はマイヤーの理論とは距離が生じ、理論上は感情の誘発などがなされにくく、聴者の心を巻き込みにくくなることになる。すなわち現代音楽は、心や感情の動きから乖離する方向性を持つといえる。実際に、現代音楽は調性音楽に比べ一般的には広く聴取されない傾向があり、「楽しむ」対象となりがたいのは、おおむねマイヤーの理論と合致しないことと関連があるのであろう。評者も不勉強のためもあって現代音楽には疎く、非人間的な音楽という印象を持ち、自ら好んで聴取することはほとんどなかった。しかし小林氏の著書を拝読すると、現代音楽がかようにも人間的な営みから生まれてきたのかという新鮮な驚きを持つとともに、現代音楽やその作曲家への親近感が一気に増した。

本書は、8人の現代音楽家を病跡学的に論じたものである。しかし単なる病跡学の一著書の枠に収まるものではなく、音楽的な面からも、20世紀という時代を生きた人間への興味という点でも堪能できる内容となっている。序章で主に20世紀音楽の流れと病跡学の解説がなされ、第一章から第八章にかけて、「発話旋律」(ことばのイントネーション)の中に音楽を見いだしてゆくレオシュ・ヤナーチェク、マーラーよりも早期にマーラー的な音楽を達成していたとされるハンス・ロット、「父なるもの」と「母なるもの」の相剋のなかで民謡研究を作曲に取り込んでゆくバルトーク・ベーラ、スキゾイド的で当時の音楽界と折り合いがつかず、生前にはその半数以上の作品が演奏されなかったルーズ・ランゴー、伝統的ロマン派音楽語法でも機能和声の崩壊などの非伝統的な潮流でもない、孤高の道を歩んだ「リウマチ者」アラン・ペッテション、「非情に」組織化された自動ピアノ作品の創造に専心したコンロン・ナンカロウ、前衛と伝統の折衷的な姿勢を貫き、自死後十余年を経て現代の重要な一潮流とみなされるようになったベルント・アロイス・ツィンマーマン、既成の音楽のコラージュや他人の様式の要素を用いる「多様式主義」を押し進め、3度の脳出血にもかかわらず作品が深まりをみせてゆくアルフレード・シュニトケに順次光があてられてゆく。ここで考察される8人は、著者は自らの愛する音楽家を選んだにすぎないと述べているが、この面々もバラエティに富んでおり、そのありように触れるだけでも、現代音楽の本質を広範に俯瞰できるように思う。

音楽の病跡学は、著者も指摘しているように、論じるのが難しい。作品そのものが言語体系でできていない一方で論考は言語で行わなければならないし、音楽着想は超越的なものとの邂逅や生活史上のエピソードとの関連で論じられることが多いものの、それは音楽創造においては必然でもあり、その音楽家に特異的な要素ではなく音楽家一般にみられる非特異的な(音楽創造全般に共通の)現象といえる。そのため、議論は特定の音楽家というよりも音楽家全般や音楽体験全般を論じた非特異的なものになりやすい。さらには音楽を語る場合には感情移入が伴うことも多く、音楽家の病跡を客観的な視点から論じるには困難さが伴う。こういった、しばし突き当たる壁を著者は軽やかに乗り越えている。各音楽家の生涯や人となり、そして社会との関わりなどが丁寧に拾い上げられ、それらが作品や音楽活動と有機的に結びつけられて議論されている。考察は節度が保たれ、まっすぐで爽快である。精神病理学的側面ではテレンバッハ、カールバウム、ラカン、木村敏、宮本忠雄、加藤敏などが的確に引用されながら論じられ、そのうえで作曲家の置かれた社会状況や、作品の音楽的分析も含めて包括的に検討されており、各作曲家の作品を鑑賞するにあたり著者の推薦する盤も詳細に解説されている。また、精神医学の術語や音楽用語にも適宜解説が付され、それぞれの専門外でも読みやすいよう配慮されている。その論は、音楽を言語の側に引き寄せるのではなく、音楽が音楽らしくあることを尊重しながら進められていく印象を持った。このような多面的な姿勢には、著者のバランスのとれた深い見識が感じられる。

そして何よりも、著者の音楽への愛が感じられる心温まる書物でもある。音楽は投影を受けやすく、音楽や音楽家への愛、音楽を語りたい熱情はともすると自己愛と表裏一体となる。もちろん趣味としての音楽ならばそれでよく、それもまた音楽の役割の一つなのだが、著者の愛はむろん自己愛ではなく、敬意に満ちた利他的な愛であるように感じられた。そしてその著者の気持ちに巻き込まれて読み進めるうちに、あげられた作曲家たちの愛すべきキャラクターと直に接したような感覚さえ生じる。評者は、もちろんこれまでの不勉強のせいもあるが、これほどまでに現代音楽に興味を抱かされたことはかつてない。さまざまな意味で楽しく、読後感も爽やかで豊かな気持ちにさせてくれる書物である。 (『臨床精神医学』38巻3号・2009年3月・アークメディア刊)





◎松浪克文氏 (虎の門病院精神科) 評

本書は、著者が2000年から2008年の間に現代音楽の作曲家について積み上げてきた病跡学的研究を中心に組まれた論文集である。著者は第一章に「20世紀作曲家の病跡学」と題して現代音楽の作曲家群像について解説し、幅広く現代の作曲家の置かれた音楽情勢を描き出したうえで、本書で取り扱われる特異な作曲家たちの位置づけを与えているが、よほどこの現代の音楽の質に肌が合い、日頃から親しんでおられるものと思われ、一般にはあまり著名でない作曲家にまで言及して解説しており、その鑑賞領域の広さにまずは驚嘆させられる。本論の個々の議論に立ち入ることはできないが、各病跡学的議論の中に織り込まれた楽曲分析、病状論、気質論、さらには哲学的議論も、それぞれがさまざまな問題意識を喚起し、静かな学問的興奮を覚えて読了した。

とはいえ、本書はごく平均的な精神科医にとっては、少なからず難解な書物でもあろうかと思う。第一に、本書で採り上げられた作曲家がそれほど著名な人たちではない。バルトーク、ヤナーチェクは別にしても、ハンス・ロット、ルーズ・ランゴー、アラン・ペッテション、コンロン・ナンカロウ、ベルント・アロイス・ツィンマーマン、アルフレード・シュニトケ等々の楽想を、その名を聞いただけで思い浮かべられる人は、そう多くはいないであろう。評者自身もこのうちの何人かは聞いたこともない人で、本書を読むに当たってはじめてCDを買い求めた。第二に、かなり専門的な楽曲分析が盛り込まれており、読み進む際に多少「勉強」が必要である。音楽の天才は形式改革を目指すもので、その精神病理は音楽語法を築き上げる局面に現れることが多い。特に現代音楽では和声の有機性organizationを構成する音組織自体への直接的な変革が問題となっているので、作曲家の思考も勢い、音による表現をめぐる原理的な問いへと踏み込んでいく。これらを鑑賞、批評するとなると、ベートーベンやモーツアルトを論じる場合とは異なった音楽理論の参照枠が必要となる。さながら、科学哲学的議論が中世の天文学や近世の化学を論じた後に現代物理学へと論点を移す時のような、多少とも常識的視点とは異質な、あらたな思考枠の偏向、建て直しを要求されるのである。この難関に耐えて読み進むには一定の忍耐力が必要であろう。第三に、著者は自身の仮説を、内海、加藤、新宮、花村、宮本など(アイウエオ順)のわが国の、必ずしも平易とは言えない精神病理学的研究とつきあわせて検討を加えており、精神病理学を専門としてはいない方が議論の行方を追い、内容を消化するのには多少の苦労を要するだろう。

こうした内容の濃さを指摘すると、なにやら重たい読み物のようであるが、実は存外、軽く読み進める。それは、著者が作曲家の生活史や人物描写を実に手際よく、読み物として読ませるようにとりまとめていること、豊富な写真資料を取り込んでいること、著者の文体に、「現代」の芸術を論ずる文章にありがちな晦渋なタッチがないこと、などがその理由であろう。また、著者が随所に、非常に平明な解説を付けていること、各章の終わりに当該の作曲家の「音盤紹介」が用意されていること、などは読者の便宜を図った努力として好感が持てた。評者もこの音盤紹介に導かれて、本書を手にする前には聞くこともなかったはずの、いくつかの現代音楽をこれからじっくり鑑賞し、著者が展開した楽曲構造と作法の分析と精神構造や心理的傾性との関係を吟味しようと考えているところである。 (『精神医学』51巻3号・2009年3月・医学書院刊)





◎山内美奈氏 (愛媛県立南宇和病院) 評

「現代音楽」はムズカシイ。
そこそこのクラシック愛好家を自負する私でも、「現代音楽」と聴くと怯んでしまうし、実際この『シンフォニア・パトグラフィカ』を手に取っても、その半分ほどしか名前を知らない。ヤナーチェク、バルトーク、ランゴーまでならなんとか分かるが、ロット? ペッテション? ナンカロウ? その存在すら知らない現代音楽家の病跡など、果たして読んで理解できるのものナンカノウ? と、恐々としながら項を捲った。

ところが項を進めると、畏れていた「現代音楽」の暗雲はなく、予想以上に読みやすい。丁寧な出来上がりに、暗雲どころかやわらかな知識の光が射し込み、やがてその光は優しく広がってゆく。およそ理解できないだろうと思っていた「現代音楽」の病跡が、だんだんと拓けてくるのだ。

まず圧巻は序章である。「20世紀作曲家の病跡学」と題されたその序章で、小林は大胆にも「病跡」についてまず語り始める。「『天才と狂気は紙一重』とは手垢の付いた言葉だが、『厳然として紙一重の差がある』とみるか『紙一重の差しかない』とみるかで、両者の関係には『紙一重』以上の違いが出る。そのあたりに切り込んでいくのが、パトグラフィー、すなわち病跡学という学問である」というのが冒頭であり、どうやら小林は、病跡学の門外の読者も想定しているらしい。病跡学を学んでいると「病跡学とは」と意識して考えることは少ないが、小林の説く病跡学は挑戦的だ。「人間の創造性がどこに由来するかは未だ説き明かせぬ問題であるが、少なくとも疾病と創造性が『変質』であれ何であれ、同じ根を持つとは考えられない。しかし、個別には病と創造性が不可分といえる天才もいるかも知れないし、同根とはいえないまでも何らかの相関関係を持っているかもしれない。そうした領域、創造性の根源を病理を介して解き明かしたいというのが病跡学の欲望である」とし、さらに音楽の病跡学について様々な例を引きながら、「かように音楽とは、様々な人間的事象の交差する領域に位置する。そこに精神医学的にアプローチすることは、困難な作業ではあっても、肥沃な鉱脈を掘り当てる可能性があるのではないか」と括る筆からは、小林の興奮が浮かぶようである。

序章の後半は、現代音楽史である。現代音楽は聴くのが難解なら全体像を把握するのも難解だ、と思っていたが、小林に解かれて現代音楽の歴史的な「流れ」がやっと少し掴めた(「現代音楽の本」ではなくて「現代音楽の病跡の本」のはずだが、「現代音楽」の入門書としてもこの本はかなり有用である)。伝統調性の崩壊についてヴァーグナーの《トリスタンとイゾルデ》を鍵として説明し、さらにヴァーグナーについても簡単に先行研究を引き、「福島はヴァーグナーが臨床的な境界性人格障害と同様の境界性人格構造を有しながら、臨床的に人格障害に陥らない程度に防衛が成功している例とみているが、境界性人格障害の人々は対人的に困難を抱えつつも、独特の人間的な魅力を放つことがえてしてある。ヴァーグナーという強烈な個性の周囲にもまた多くの才能が集まってきた」として話題を広げてゆく。ヴァーグナーの個性については知らなかったが、こう描かれるだけでヴァーグナーという人生への興味が深まって楽しい。良い教科書は良い読み物である。

序章を読み終えて、いよいよ各章では8人の現代音楽作曲家の病跡を個別に論ずる。これは、これまでに小林が日本病跡学会にて発表し、同学会誌に発表したもので、この稿の読者にはすでにそれらを読まれた方も多かろう。単行本化に際して、文章は縦書きの読みやすい形に改まっており、図版や丁寧な脚注、音盤紹介が書き加えられている。中でも音盤紹介が良い。音楽の病跡を論じるうえでその音を呈示できないのは、小林にとってもどかしい思いだったに違いない。どんなに丁寧にその音を描写しても、音楽においてはテキストの百見は一聞に如かないのである。そんな小林の思いを補うように、テキストは多くの音盤を、限られた誌面を惜しむように紹介していて、小林が「クラシック・フリーク」と恥じらいを込めて自嘲するクラシック音楽への愛が感じられる。

まず、第1章に颯爽と登場するのは(比較的有名な作曲家から順に並べてあるようであるが、実は単に生年順だそうだ)、レオシュ・ヤナーチェクだ。小林の病跡各論のスタイルはシンプルで、まずその人物の概略を述べ、次に人物の成育史と音楽における業績を詳らかにし、その後精神医学的な人物考察を行った上で、最後にその創作と精神の関係を大胆に纏め上げる。つまり、「〈音楽学〉→《病跡》←〈精神医学〉」という構造が非常に明確なのである。そのどちらからの矢印が不完全でも《病跡》は成り立たないと気付かされる、正しい学問的姿勢である。

さて、ヤナーチェクは小林が「先進的な田舎作曲家」とするチェコの作曲家である。精神医学的には、小林はヤナーチェクを類てんかん気質〜中心気質者とし、「中心気質者は、天真爛漫で、うれしいこと、悲しいことが単純にはっきりしていて、周囲の具体的事物に対して烈しい好奇心を抱き、熱中もすればすぐ飽きる。動きのために動きを楽しみ、疲れれば眠る。明日のことは思い煩わず、昨日のことも眼中にない」と初学者にも明解な説明を加えながら、今度は音楽学的に、「ヤナーチェクの表現主義とは、情緒の変動のこの上もなく豊かな幅、優しさと荒々しさの、怒りと安らぎの、つなぎ目がなく、凄まじい緊迫した対決のことなのだ」という特徴を採り、その精神医学的な特徴と音楽学的な特徴の関係を論じ進め、「ヤナーチェクの音楽は過去から未来へと流れる線的な時間構造(中略)を欠き、感情が今の感情であるという意味において、極めて現在に密着した音楽といえるのである。他方、そのような従来の構造を欠く点で、伝統的な視点からは素人的で奇妙な音楽と判断されたのであろう」と纏めたが、その「音楽学と精神医学の知識を練り合わせて病跡学的な考察を行う」という作業が実にダイナミックで面白かった。また、老年期の(ほぼ片思いの)恋と、それによって高まった創作の独創性もかなり詳しく紹介されていて興味深い。

次に第2章では、統合失調症を発症したと思われる作曲家ハンス・ロットを取り上げる。後世に名を残した作曲家で、明らかな精神病に罹患したと思われる者は(画家や文学者と比べても歴然として)非常に少ないと小林自身が述べているが、この章では、統合失調症と創作の関連を探るべく、統合失調症における高揚相と創造の関係について検討していたり、「偶発的ポリフォニー」「異種並列様式」「主題の断裂」「モティーフのモンタージュ」といった統合失調症と関連した表現様式に注目している。また、後世に名を残した作曲家に精神病の者が少ない理由として、「精神病でなくとも、作曲家の伝記において、独創的な楽曲が『演奏不能』のレッテルのもとに葬られかけたといった逸話は枚挙にいとまがない。とすると作曲家には自己の芸術を演奏家に認めさせ、それから世に認めさせるという世俗的才能が必要なのではないだろうか」と、至極自然な仮説を提示していて膝を打った。

第3章以降も各音楽家の病跡各論が続くが、どれも個別的でありながら、普遍的な議論として読める。また、ナンカロウやツィンマーマンの章では、見るだけで奇妙な譜例が図示されており、大変面白い。このようにして1冊をあっという間に読み終えた……というのは嘘であるが、『現代音楽の病跡学』というものものしい題から想像したよりはずっと読みやすく、小林から溢れ出る「20世紀音楽」への愛情と知識の泉にひんやりと足を浸したような、気持ちの良い感動のあるテキストであった。

……小林聡幸は私の病跡の師である。普通なら師匠の本に身内が書評、とは何とも格好の悪いものであるが、「こんなマニアックな本に書評を書いてくれる人がいるとは思えないから、書評を書いてもらえないだろうか、頼む」と、いつになく弱気な師匠に頼まれると断れない。多少及び腰で引き受けたのだが、改めてこの本と向き合ううちに、いつの間にか、良き師に出会えたという感動が、胸を満たしていた。

思い出すのは数年前、私が病跡学会で発表するテーマを選んでいたときのことだ。「『ヒカルの碁』の漫画が大好きなんです。この漫画をテーマに、イマジナリー・コンパニオンと関連付けて発表してみたいけれど、『ヒカルの碁』じゃ知名度が低いので、『ドラえもん』にしようかな」と迷っていた私に、一言、小林は「『ドラえもん』はダメ。愛してやまないものをやれ」と言った。「愛してやまないものをやれ」と言ったその言葉に、小林の病跡学への真剣な態度を感じたが、そんな学問への愛情あふれる眼差しに満ち満ちているこの本である。

「しかし筆者の目論見は作曲家たちの診断ではない。作品から、その創作者たる作曲家の心、あるいは精神構造体としての作曲家の姿をたどろうという試みである」と言う小林の病跡学研究の集大成を、ぜひとも手に取ってみられたい。 (『日本病跡学雑誌』77号・2009年6月・日本病跡学会刊)