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宮崎滔天 アジア革命奇譚集 (明治国姓爺+狂人譚)

アジア共同論の源流――大アジア主義と国家主義を超える視線

アジア革命への中国革命に挺身した滔天が、フィクションに昇華させたその思想。西欧植民地主義の時代、世界の中でアジアたることは何なのか? この問いをつきつけられて、東アジア共通の大課題を日中民間共同の中国革命として果す試みがあった。あるいはたおれ、あるいは発狂――スケール違いの真摯な面々を謳う滔天一流のリズミカルな節回し。孫文が最も信頼した日本人滔天の隠れた名篇。

熱血少年の晴れやかなビルドゥングスロマン、『明治国姓爺』。 主義・宗教のダークな深みにはまった、ナポ鉄・釈迦安(シャカやす)・道理満(どうりマン)の末路、『狂人譚』。

冗談か? 真剣か? そのスタイルに賭けられた宮崎滔天の批評精神。

   



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著者 宮崎滔天
書名 宮崎滔天 アジア革命奇譚集  《新浪花節/慨世危譚》 明治国姓爺 + 狂人譚 《ナポ鉄+釈迦安+道理満》
体裁・価格 四六判上製 384p 本体価格3500円(税別)
刊行日 2006年3月30日
ISBN 4-902854-13-9 C0095


著者紹介 宮崎滔天 (みやざき・とうてん)



1870(明治3)〜1922(大正11)。本名寅藏。熊本の郷士の家系に生まれる。西南戦争で戦死した英雄八郎を長兄にもつ。10代は、徳富蘇峰の大江義塾、東京専門学校(早稲田大前身)英語学科、長崎の加伯利英和学校などで学び、キリスト教に入信するもほどなく棄教。

1891(明治24)年、21歳のときに兄の彌藏の説く中国革命主義に共鳴、以後生涯の大方針となる。朝鮮改革主義者の金玉均亡命中にはその協力者となる。中国革命への布石として大陸やタイなどに渡ること数度。1897(明治30)年に孫文と初会見、以後日本における孫文の主要な協力者となり中国革命を援助。難航する革命における自己の無力感を抱え、一時浪花節語りを生業とし、桃中軒牛右衛門を名乗る。1911(明治44)年の辛亥革命成就後も、孫文・黄興ら革命家との協力関係は続き、滔天の死に際しては上海で孫文ら主催の追悼会が開催され、「日本の大改革家」「中国革命に絶大の功績」との賛辞を受ける。

主著に『三十三年之夢』『狂人譚』『明治国姓爺』など。その他著作多数。『三十三年之夢』は刊行間もなく中国語に翻訳され、革命の先達孫文と日本の援助者滔天の存在を中国の有志に知らしめ、革命を志す中国人留学生を数多く日本の地に迎える契機となった。


原典紹介

『明治国姓爺(めいじこくせんや)』は、明治36(1903)年8月16日から37年1月29日にかけて、日刊『二六新報』紙上に、桃中軒牛右衛門述「新浪花節/慨世危譚 明治国姓爺」第一席〜第百十二席として連載された。本書の底稿にはそれを使用。

『狂人譚(きょうじんたん)』は、明治34年(1901)年6月19日から同年10月13日にかけて、日刊『二六新報』紙上に、不忍庵主の筆名で68回連載された。『狂人譚』は、新聞連載の後に滔天著(奥付著者名・宮崎寅藏)として単行本が出版されており(國光書房・明治35年9月25日発行)、本書の底稿にはその第6版(明治36年2月10日)を使用。

* 本書では、漢字は新漢字に置き換えて表記し、踊り字(ゝゞヽヾくぐ々の繰り返し記号)、仮名づかいは底稿のとおりに表記した。


辛亥革命勃発後(1911)、帰国した孫文を香港のデンバー号船上で迎えた滔天ら革命同志



宮崎滔天略年譜

(年齢[ ]は満年齢)

1870(M.3)年[0]……12月3日(新暦換算明治4年1月23日)熊本の荒尾村に誕生。戸籍名虎蔵、通称寅蔵。父・宮崎長蔵(52歳)、母・佐喜(43歳)、八男三女の末子(うち四人早世、育った七人は上から、八郎、留茂、伴蔵、富、民蔵、彌蔵、寅蔵)。郷士の家系で、父は二天一流の武芸者として知られる。

1872(M.5)年[2]……12月3日が新暦の明治6年1月1日となる。

1877(M.10)年[7]……西南戦争に協同隊を組織し西郷軍に呼応した長兄八郎戦死(26歳)。熊本民権党の中心人物としてつとに中央にも知られた英雄八郎戦死の家族への影響は極まりなく、「一生官に仕えてはならない」との考えを家族は抱く。

1879(M.12)年[9]……父長蔵、脳溢血で死去(61歳)、一兄民蔵が家督相続(14歳)。

1884(M.17)年[14]……県立熊本中学校入学。(この年、甲申政変で朝鮮独立党首領の金玉均が日本に亡命)。

1885(M.18)年[15]……徳富猪一郎経営の大江義塾(熊本)に入学。(民蔵上京、中江兆民の仏学塾に学ぶ)。

1886(M.19)年[16]……春、上京し私塾に入学。夏、キリスト教に魅かれ、上京中の蘇峰の紹介により小崎弘道の教会に通う。秋、東京専門学校(早稲田大学前身)英語学科入学。

1887(M.20)年[17]……春、小崎の番町教会で受洗、直ちに帰省し伝道、母を入信させる(民蔵は「道理主義」を以て拒否)。夏、二兄彌蔵(20歳)より支那革命主義の誘いを受けるが、キリスト教主義論で応じ、兄が受洗。実家民蔵よりの送金事情にて兄弟帰郷。

1888(M.21)年[18]……春、正則熊本英語学会に学び、秋、長崎の加伯利英和学校に転学。

1889(M.22)年[19]……長崎で一木斎太郎らの製糞社連、イサク・アブラハム(『狂人譚』道理満のモデル)と交友、信仰が揺らぐ。彌蔵の棄教に続き滔天も棄教。熊本小天村の前田案山子宅にアブラハムの村塾開設、同家に止宿するうち、三女槌(18歳)と恋仲に。

1891(M.24)年[21]……ハワイ行きを計画するが、彌蔵の説得をうけ中国革命主義に共鳴、以後の大方針となる(民蔵は反対)。

1892(M.25)年[22]……長崎より上海に渡るが、旅費を騙し取られ、ふた月ほどで帰国。前田槌と結婚。長男龍介誕生。

1893(M.26)年[23]……彌蔵と相談し金玉均との提携を策して上京。

1894(M.27)年[24]……金との中国革命に関する提携を約し、彌蔵と中国行き準備に着手。李鴻章説得に赴いた金玉均が閔妃の刺客により上海で暗殺される。二男震作誕生。(この年、日清戦争)。

1895(M.28)年[25]……彌蔵との分業策にて、滔天タイへ、彌蔵は辮髪と変名にて横浜の中国人商館に住み込み(滔天年末一時帰国)。孫文、陳白(陳少白)ら最初の広州挙兵失敗し日本へ亡命。

1896(M.29)年[26]……再びタイへ、スリサック侯援助により農業に従事。熱病にかかり九死に一生を得、帰国。彌蔵、腸結核で死去(29歳)、危篤の報で横浜に急行するも死に目にあえず。犬養毅より中国行きの旅費支給の約束を得る。

1897(M.30)年[27]……民蔵、アメリカに出発。長女節誕生。犬養周旋により外務省機密費を得て「支那秘密結社調査」に出発。マカオ、広州、香港にて孫文の動静を探り、近々日本へ立ち寄りとの情報入手。横浜で孫(31歳)と初会見。孫を犬養にひきあわせ犬養周旋により居住許可を得る。孫を荒尾の生家に伴い二週間ほど滞在。

1898(M.31)年[28]……玄洋社機関紙『九州日報』に孫文の『Kidnapped in London』を「幽囚録」として翻訳連載(初めて滔天の筆名を名乗り以後号とする)。犬養より金を受け中国に。戊戌政変に際し康有為の日本亡命を助け帰国。孫・康の合作周旋を試みるが不成功。

1899(M.32)年[29]……孫文の要請を受けフィリピン独立闘争支援を約束、犬養に相談し武器輸送を工作するも海難にて失敗。中国にて興中会・哥老会・三合会合同の興漢会結成に尽力。

1900(M.33)年[30]……南清蜂起のため孫文と横浜を出発。清朝、列国との義和団戦争。李鴻章側と接触後、康有為との合作のためにシンガポールに立ち寄るが、康有為暗殺計画の嫌疑で逮捕、投獄、追放。九龍で孫と面会後帰国。台湾へ密行の孫文の命で恵州起義発動、但し孫と台湾総督府密約の日本軍連携軍事行動中止(伊藤内閣指示)により蜂起軍途中解散。このかんの一連の武器搬送に絡む背信・横領事件(犬養紹介の中村背山=彌六の着服)が明るみに出て、その調達・仲介の任にあった滔天は疑惑と非難にさらされる。

1901(M.34)年[31]……正月、前年の背信事件に対する犬養の配慮により犬養邸にてもたれた同志親睦の酒席で、事情説明と背信者誅伐を迫る内田良平に対し口を噤み、言い合いのすえ内田に食器で額を割られる。『狂人譚』を『二六新報』に連載。浪花節語りになることを決意(乞食芸人と見られるその職業に周囲の大多数は猛反対)。

1902(M.35)年[32]……『三十三年之夢』を『二六新報』に連載。桃中軒雲右衛門に入門、桃中軒牛右衛門を名乗り浪花節修業。貧窮。

1903(M.36)年[33]……雲右衛門一座九州初興行の案内役をつとめ興行は成功するが雲右衛門との間に不和。長崎の楽屋で愛人柿沼とよ(20歳)が女児リツを出産。雲右衛門一座と決別し佐世保で柿沼母子と生活、この間『明治国姓爺』を『二六新報』に連載。『三十三年之夢』中国で訳書二種刊行、これにより孫文とその一党を知った者多数。

1904(M.37)年[34]……日露開戦。柿沼母子と東京へ。伊藤痴遊と一心亭辰雄の一座に加えてもらい浪花節の修業と興行。蜂起破れて亡命し留学生の間に重きをなす中国人黄興(32歳)と出会い意気投合。

1905(M.38)年[35]……槌一家上京、滔天は柿沼母子と別れ新宿に新居。孫文マルセイユより日本へ。黄・宋教仁・張継による孫文歓迎会。滔天、中国革命同盟会創立に尽力(孫文総理、黄興副総理)。

1906(M.39)年[36]……滔天ら革命評論社『革命評論』創刊。

1907(M.40)年[37]……清朝の圧力強まり孫文離日。同盟会内紛(孫と黄ら若手の対立)、革命評論社に波及(『革命評論』10号で休刊)。在ハノイの孫、滔天に中国同盟会在日全権委任状送付。(この年、孫は四回にわたり挙兵するがいずれも失敗)。痴遊、辰雄と西日本巡業。

1908(M.41)年[38]……貧窮、小石川に転居(その後も、貧窮し転居数度)。黄興の往来頻繁。(この年、光緒帝、西太后あいついで死去)。

1909(M.42)年[39]……「滔天会」一座、中部・西日本巡業。滔天最後の浪花節巡業となる。母佐喜脳溢血で急逝(81歳)、巡業先より帰省。

1910(M.43)年[40]……蜂起計画絡みで連絡を受け急遽帰京。十年ぶりで中国に渡り香港で黄興と会見、旅中初めての吐血、帰国。孫文、ドクター・アロハの変名でハワイより来日、滔天宅に滞在するが政府の退去命令により離日。大逆事件の捜査始まり荒尾の生家家宅捜索。

1911(M.44)年[41]……広州黄花岡の役起こり、武器密輸に奔走、総指揮の黄興は右手二指を失う。10月10日、武昌蜂起、辛亥革命となる。在米中の孫文より滔天あて日本政府の内意を探る電報(西園寺内閣、孫の入国許さず)。滔天、内田らと革命支持の有隣会結成。11月、滔天も上海入り。揚子江遡航を経て、孫文の香港着を迎える。南京の各省代表者会議、孫文を臨時大総統に選出。

1912(M.45、T.1)年[42]……1月1日、孫文、臨時大総統就任式、中華民国成立。南北妥協難航。満洲租借を条件とする孫文最後の日中秘密借款交渉(代表森恪)立会人となる。交渉不成立にて、孫、北京政府の袁世凱に譲位。宣統帝退位、清朝滅ぶ。孫文辞職、袁が公選で大総統となる。孫、袁との会談により民国鉄路総弁に就任。滔天、吐血し入院、帰国。

1913(T.2)年[43]……鉄道視察に来日の孫文一行に随行。反袁勢力を議会主義で伸ばす宋教仁暗殺の報、孫・滔天ら中国入り。第二革命挙兵、終息。滔天再び吐血し入院、帰国。孫と黄の対立調停の試み。

1914(T.3)年[44]……黄興恵贈の千円で高田村(現西池袋)に新居。在日中の孫文、中華革命党創設。(この年、第一次世界大戦始まる)。

1915(T.4)年[45]……大隈内閣、対華21ヶ条要求。滔天、衆議院議員選挙に出馬、最下位落選。頭山満によるインド独立運動の志士ボースの保護、救助に協力。第三革命始まる。

1916(T.5)年[46]……孫文、中華革命党本部を上海に移し中国へ、滔天同行。袁世凱悶死。黎元洪大総統、段祺瑞総理就任。黄興吐血し逝去(42歳)、雲右衛門逝去。

1917(T.6)年[47]……黄興国葬に列席。湖南省立第一師範学校生毛沢東(24歳)らの招きで同校にて講演。一時、家族と上海で暮らす。帰国、節酒に努める。(この年、ロシア十月革命)。

1918(T.7)年[48]……日支国民協会(犬養・頭山設立)の委嘱を受け上海に渡航、医師より腎臓病を指摘され帰国、絶対禁酒と安静が申し渡される。時事評論『東京より』を『上海日日新聞』に連載。来日の孫文を迎え箱根で静養。頭山の配慮で群馬県湯古屋に湯治。姉からの頼まれごとで朝鮮に数日滞在。年末、痛飲により腎臓病再発。(この年、シベリア出兵、米騒動、ドイツ降伏で第一次世界大戦終了)。

1919(T.8)年[49]……ベルサイユ講和会議。『炬燵の中より』を『上海日日新聞』に連載。中国で五四運動。息子龍介と上海行き、孫文とも会談。孫文、中華革命党を中国国民党に改組、総理となる。

1920(T.9)年[50]……『出鱈目日記』を『上海日日新聞』に連載。息子龍介、柳原白蓮との恋愛関係が世間の問題に。この頃より大本教に関心を寄せる。年末、滔天夫妻、大宇宙教に帰依。

1921(T.10)年[51]……孫文の招きを受け、最後となる中国渡航、広東へ(萱野長知同行)。滔天夫妻、西日本各地参宮旅行、その後、腎臓病に心臓・肝臓病併発、医者より一年の命との宣告。

1922(T.11)年[52]……尿毒症併発。12月6日午前1時30分瞑目。戒名、一幻大聚生居士。(翌年1月、上海にて孫文ら主催の追悼会が開かれ「日本の大改革家」「中国革命に絶大の功績」の賛辞を受ける)。




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