独立行政法人日本学術振興会科学研究費助成事業 基盤研究(C) 課題番号16K02378 補助事業期間 平成28年度~平成30年度

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投稿 005
3. 契沖は同時代においてどう評価されていたか -その1-

――「天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。同時代は常にこの一歩の千里であることを理解しない。後代は又この千里の一歩であることに盲目である。同時代はその為に天才を殺した。後代は又その為に天才の前に香を焚いている。」芥川龍之介『侏儒の言葉』

 芥川龍之介の有名なアフォリズムの一節である。わたしたちは「天才」と呼ばれる存在を、同時代においても後代においても、あるがままに捉えることができないらしい。「天才」とは「我我」からの差異において、つまり隔たりにおいて現われる存在なのであるが、その差異は通常の計算法では測定が不可能なのだ、そう芥川は言っている。「天才」という現れは、「一歩」=「千里」であるような隔たりというものが理解できて初めて理解しうる何かであるわけなのだ。

 むろん、芥川をしてこう言わしめるのは、当然ながら、彼自身における「一歩」の経験なのである。それは、実に困難で、孤独な「一歩」の経験なのである。そして、その「一歩」が本来的に歴史的な地平への「一歩」であることは、芥川が「同時代」とか「後代」といった歴史軸でこれを捉えようとしていることからも明らかだ。

 要するに、わたしたちが何かきわめて孤独で、困難な歩みをおずおずと踏み出しつつある時、それは文字通り「歴史的一歩」なわけで、もし、上の芥川の言葉を単に頭脳の鋭利さやIQのことだと捉えたとしたら彼の問題提起をまったく了解しないことになってしまうだろう。

 前置きが長くなってしまったが、圓珠庵契沖阿闍梨の革新性ということについて、「同時代」はいかに評価したであろうか。今回は、この問題について、まず一歩を印してみたいのである。

 ところで、今筆者は、「圓珠庵契沖阿闍梨」と書いた。
 実際、契沖は書簡ではしばしば自身を「圓珠庵」と言い、また、同時代および後代の人々は彼を「契沖阿闍梨」と呼んだ。また、阿闍梨の最晩年に親しく教えを受けた安藤為章は没後一年に「圓珠庵契沖阿闍梨行実」という簡潔な伝記を書いている。「圓珠庵契沖阿闍梨」がもっとも丁寧で、敬意のこもった呼称ということなるだろう。
 また、単に「契沖」と書くよりも、「契沖阿闍梨」と書いた方が、隔たりの感覚を目覚めさせてくれるような気がする。実際、単に「契沖」と呼ぶのは「国文学」という制度のもたらした言い方であって、それは、研究者が、無意識的にであれ意識的にであれ、契沖が真言宗の僧侶であることを埒外に置くことを意図するものなのではないか。
 ここは同時代における契沖理解を問題にするので、敢えて「圓珠庵契沖阿闍梨」という明治・大正の頃までの呼び方に戻ることにしよう。

 さて、契沖阿闍梨をきわめて高く評価した同時代人は何人もいた。
 まずは師の丯定(かいじょう)である。丯定は二十三歳の契沖に曼荼羅院の住職を譲っている。そして、その翌年、契沖は二十四歳で阿闍梨位を得ている。この人は、『万葉代匠記』の作者である前に、真言宗の高僧なのである。
 実際、契沖阿闍梨の学殖は仏教と和学(国文学)にわたっており、その両方の分野に門弟がいる。

 また、彼には、仏教の方面でも、和学の方面でも有力な後援者がいた。
 三十代の前半、彼は、和泉国の久井村の辻森家(のちの辻井家)に寄寓し、同家の書庫の漢籍・仏典を読んでいる。阿闍梨の外典に関する知識はこの時期に培われたのであろう。
 三十代半ば(延宝二年からの四年間)には、同じく泉州万町(まんちょう)の伏屋家に移り、同家の蔵していた和漢の書を研究している。契沖の和書における造詣が深まったのはこの時期だと考えられるのだが、別の機会に述べるように、池田利夫の研究によればこの時期にかの『万葉代匠記』は起筆されている可能性が大きいのである。
 のちに契沖阿闍梨が竟の住処とした「圓珠庵」は、伏屋長左衛門が寄進してくれたものである。財力のある人々の知識に対する敬意というものは今日のわれわれの想像を超えるものがあったらしい。

 こうして、契沖阿闍梨の学殖が少数ながら同時代的にも認識されていたことはまちがいないところであるが、その歴史における卓抜を同時代においてもっとも鋭く洞察したのは他でもない水戸黄門と呼ばれる徳川光圀(同時代には「西山公」と呼ばれることが多かった)であった。
 西山公が契沖を見出す経緯については、これまた別途に整理紹介するほかはないのであるが、ともかくとも、『万葉集』の注釈の決定版である『釈万葉集』の編纂という事業のために、西山公光圀は契沖を抜擢したのである。これは『大日本史』編纂に関連する事業である。

 先に触れた安藤為章は、西山公光圀が『釈万葉集』を編纂するために召し抱えた寄人で、光圀の意を受けて契沖阿闍梨のもとに出向いて直接に教えをうけたわけである。
 その為章の著作『年山紀聞』に収められた上述の「圓珠庵契沖阿闍梨行実」によると、西山公光圀は『代匠記』の創見に関して「其の卓見を嘉みし、且つ其の素意に合へるを奇と」したとか「掌を抵って以て千古の発明と」したとか書かれている(『日本随筆大成 新装版 第二期 16』、一九九五年、吉川弘文館、四五五―四五六ページ)。
 重要なのは、『万葉代匠記』が契沖阿闍梨個人の万葉研究から水戸家の修史事業の一環へと組み替えられていったことで、その結果、契沖阿闍梨は『代匠記』を終生意欲的に改訂し続けることになったのである。
 また、契沖阿闍梨の周辺には今井似閑や海北若冲らをはじめとする和学に関する弟子もいて、その最晩年には弟子たちの懇請によって『万葉集』全巻の講義を行っている。
 しかしながら、契沖阿闍梨の『万葉集』研究は、結局、水戸家の『釈万葉集』編纂という事業に吸収されてしまい、『万葉代匠記』という書物が公刊されるのは明治になってからのこととなるのである。江戸時代の『万葉集』研究者たちは、『万葉代匠記』の「初稿本」を書写したものを入手して学んだのであった。

 契沖阿闍梨の没後五十年後に京都に留学していた本居宣長は噂に聞く『万葉代匠記』を入手しようとしても手に入らず、それどころか、すでに公刊されていた『百人一首改観抄』でさえ、売れ行きが悪かったので再版されず、手に入れるのに苦労したと書いている(『玉勝間』)。
 ちなみに、より精確な本文校訂を経て書き直されて水戸家に送られた方の『代匠記』を「精撰本」と呼ぶ。この方は、その存在すら知られていなかったのである。

 つまり、一部の好学の士、好事家を除いて、契沖阿闍梨は無名でありつづけたのである。そして、その無名性は没後五十年ほどは続いている。
 このあたりの事情については、契沖の令名を世に広めるきっかけとなった伴蒿蹊著『近世畸人伝』の東洋文庫版の校注者であり、論文「近世畸人伝の成立」(一)~(三)(『国語国文』三一巻七号―九号、一九六二年七月―九月)の著者である宗政五十緒の整理に学ぶところが大きい。

(…)『百人一首改観抄』は寛延元年(一七四八年)の刊行である。本居宣長が上京して堀景山のもとで契沖の著作に接したのはそれより四年ののちである。一方、荒れていた円珠庵の契沖の墓域も修理されて、寛保三年(一七四三年)撰文の五井蘭洲の碑が建設された。契沖の業績が世間に注目されるようになったのはこの頃のことと思われる。(…)契沖の名が更に世上に高まって、ポピュラーになったのは寛政に入ってからであろう。その名が世人に知られるにあずかって力のあったのは伴蒿蹊著の『近世畸人伝』に載る契沖伝によってであろうと思われる。(…)『畸人伝』は安藤為章の『年山打聞』に載っている契沖の「行実」、ならびに、義剛の『遺事』によって撰ったのである。

と述べて、契沖阿闍梨の著書が寛政から文化年間にかけて、つまり、没後だいたい百年を経て、次々と上梓されるようになったとして文を結んでいる。

 こうしたなかで、宣長の契沖理解には時代を超えたものがあるようだ。
 宣長は契沖死後半世紀あまり後の宝暦年間に書かれたとされる『排蘆小船(あしわけをぶね)』で

逍遥院をはじめとして、近世の先達道にくらきのみならず、歌学にくらし、故に古書の注解など、ことにあさあさしくして、あやまり多し。(…)さて又近世の歌学の大厄は、あるひは西三条殿の説ぞ、幽齋の説ぞなとといへは、よくてもあしくても、御家の説なと云て、一偏にこれを用ひて、他家の説は、よくても一向にとらず、これいふにたらぬおろかなる事也、すへてかの逍遥院殿の説なとも、古書をばひろく考へずして、たたみたりに自分の憶説にてすまし、又はちかき世のはかはかしからぬ説を引て、ふるきたしかなる説を考ふると云事なし。

(『本居宣長全集第二巻』、一九六八年、筑摩書房、七七―七八ページ。なお、原文の仮名はカタカナであるが、読みにくいので平仮名に換えた。また、繰り返し記号は入力が難しいので「あさあさしく」「たたみたりに」のように同じ文字をそのまま繰り返した。以下すべて同じ。)

云々としたうえで、

ここに難波の契冲師は、はじめて一大明眼を開きて、此道の陰晦をなげき、古書によつて、近世の妄説をやふり、はしめて本来の面目をみつけえたり、大凡近来此人のいつる迄は、上下の人々みな酒にゑひ、夢をみてゐる如くにて、たはひなし、此人いてておとろかしたる。

と述べている。実証的な文献学を窮屈なものと決めつけ、自己流の解釈を創造的なものとするような考え方の人が「テキスト論」を唱えつつ、結局それが「自分の臆説」にすぎないものの提示に終わるという無残な光景は今も昔も変わらないのである。
 結局、「注釈」とはいかなる営みであるのか、また、「テキスト」を解釈するとはどういうことであるのかといった問いは、誰もが陥る恣意的な解釈への耽溺を「盲説」として退ける醒めた思考と表裏をなすところの根底的な思考であるのだ、そう宣長は言っている。
 この問題について、小林秀雄『本居宣長』は大きな紙数を割いて考察し、宣長は契沖の「方法」以上に、その「精神」を直知したと述べている。
 だが、そもそも、契沖阿闍梨に方法的な思考のあることそのものに気づいた人が、その同時代に存在したのであろうか。筆者には「方法」と「精神」を分割する小林の思考についての疑問を感じないではいられない。

2017年3月2日 研究代表者 西澤 一光





投稿 004
2. 本研究における「思想史」の意味について -その1-

 前項で、本研究が契沖を「思想史」と「解釈学」の二面から見ていくといった趣旨のことを述べましたが、ここでは、わたしたちの研究が考えている「思想史」の概念について概括的な説明を提示したいと思います。

 改めて言えば、わたしたちは、契沖の研究を通じて思想史の方法をうちだすこと、あるいは、確立することを目指しています。
 ここで言う「思想史」とは、単に思想を年代順に並べただけのものではありません。
 では「思想史」とはいかなるものでしょうか。

 このことの解明への導きの糸は次のことです。
 すなわち、新たな知の創造は、往々にして従来の学知への「批判」として提出されるということです。たとえば、カントの『純粋理性批判』が従来の形而上学の批判であり、マルクスの経済学に関する仕事が経済学批判から産み出されたということであり、フロイトの精神分析が心理学批判であり、といったことです。同様なことがニーチェの哲学やソシュールの言語学についても言い得るでしょう。

 要するに、新たな時代を拓く学知は、みずからの革新性を自覚して出発するのです。
 ある時代から次の時代への転換をもたらすような知の営みは、同時代の知を総体として批判するような自覚的な場所に立つわけです。近代的な学問体系は基本的に個の「創造」という契機をほとんど認めませんから、「創造」は事後的にのみ確認されるといった立場を墨守し、個の歴史への参加という契機を軽く見る傾向があるだけに、改めて18世紀から19世紀のヨーロッパにおいて進行したパラダイム・チェンジにおける学問批判ということを確認し、「創造」の自覚性という契機を見ておくことが極めて重要です。

 改めて言えば、ある思考家が知的な転換点に立っているということは、それ自体すでに思想史的な展望をもっているということを意味します。あるいは、思想史上の転換が見えるような場所に立ってはじめて、思想家は自らに構築されていく新たな知の輪郭を見ることが可能になるのです。

 このように見ると、「思想史」とは、事後的に把握される物であるとは限らないわけです。というのも、思想に限らず、新たな創造がなされる場合、それをなす者の立つ場所は必ず歴史的な場所になるからなのです。新たな物の創造は、既往の歴史を受けとめた者にしか可能にならないのです。新たな創造は、過去を受容し、これを破壊し、再構築することを通じてなされます。前衛は常に伝統との対決において創造的であり得るわけです。

 もちろん、一つの連続する文化にあっては、「歴史」が、つねに、また、すでに、作動しています。わたしたちは気づくと気づかぬとによらず、与えられた「歴史」のなかに自らを住まわせています。わたしたちが現在用いている言語も長い年月をかけて形成されてきた文化的な堆積物の一つです。
 そういう「歴史」を連続性という側面から振り返って千年以前を見る、二千年以前を振り返る、そういう意味での「歴史」というものが考えられます。
 また、そこに事後的に過去を見るという視点の可能性もあるのです。

 また、近代科学は、その基本的なパラダイムにおいて、対象と観察者の分離ということを絶対条件としますから、事後的な歴史こそが客観的な学問領域として尊重されがちです。
 しかし、この、観察者を対象から切り離して成り立つような観察や考察というものの虚構性ということは、近代確立期の日本の識者、夏目漱石、西田幾多郎、折口信夫らによって痛切に批判されていることでもあるのです 注1)。「客観性」もまた一つの「虚構」にほかならないのです。彼らのこの問題意識は今日なお現実的な意義をもっていると言えるでしょう。

 ところが、ここで、わたしたちが考えている「思想史」とは、過去を現在化する(actualize)ような「歴史」のことだということができます。
 それは千年以前を単に事後的に考察するのではなく、千年以前における事象の、その時点における現在性において見ようとする学問上のあらゆる試みです。
 この試みは、今行われつつある革新的な出来事の歴史的な意義を捉えようとする場合にはとりわけ必要であり、かつ、有効なものとなります。なぜなら、それこそが現在進行形の「創造」の革新性を明らかに見るための歴史的地平だからなのであり、事後的な視点だけからでは決して明らかにならない歴史的位相だからなのです。
 さて、このような歴史地平はどのようにして開かれるのでしょうか。

 この点でわたしたちが特に改めて繰り返し主張しておきたいのは、次のことです。
 つまり、新たな知的創造を行ってきた人びとは、思想史上の転換が見えるような場所に自ら立つのだということであり、同時代の知を総体として批判するような言説とともに自らの思考を展開するのだということです。(この点、上述の漱石、西田、折口によって近代の確立期に近代批判がなされていることなどはその鮮やかな該当例だと言えるでしょうし、同時に、きわめて早熟な事態だったと言えるでしょう。)

 たとえば宣長は契沖の強い影響下に学問を始めたわけですが(このことは重要なので別稿で整理します)、しかし、宣長の契沖に対する認識においてもっとも注目すべき点は、彼が注目したのが契沖の古典解釈の方法の歴史的革新性それ自体であったということです(『排蘆小船』(あしわけをふね))。

 宣長は最初から契沖を歴史的な地平において評価しているのです。しかも、この時宣長はまだ二十代の無名の書生であり、医術の習得のために京都に留学していたのであって、誰彼から教えられてそう記したということではないわけです。

 ところで、この『排蘆小船』という本は、大正五年(1916年)に佐佐木信綱が伊勢松坂にて本居清造から見せてもらって初めて世に出たもので、それまでは文字通り「学界未知の書」でありました 注2)。だからこそ小林秀雄は「この覚書き風の稿本は、篋底に秘められた。」 注3)と書いたわけです。
 また、小林は、「宣長の学問上の開眼が、契沖の仕事によつて得られた事は、既に書いた。繰返さないが、契沖の『大明眼』を語る宣長の言葉は、すべて『あしわけ小舟』からの引用であつた事を、こゝで思ひ出して欲しい。」 注4)とも書いています。
 もちろん、他者の「大明眼」を言うには、おのれ自身の「眼」も幾分なりとも明いている必要があるわけですが、その「眼」とはまさに「歴史」において自己のなすべき仕事を見る眼だと言えるでしょう。
 宣長という人は、自己の開眼をあからさまに誇るようなことは一切せずに、これを「篋底に秘め」たわけです。これは歴史上の系譜的関係性の継承ということについて多くを物語ることがらといえるでしょう。

 宣長の『古事記伝』の後、百五十年ほど経ってから昭和の大注釈『万葉集注釈』全二十巻が澤瀉久孝によって著わされます。『万葉集』の歌の具体的な解釈について細かく一首一首検討していくと、契沖以後では、この澤瀉『注釈』においてなされた解釈上の更新が際立っています。澤瀉『注釈』もまた新たな画期をもたらした仕事なのですが、その澤瀉が実は契沖の革新性をきわめて重視しているのです。澤瀉は京都大学において数多くの俊秀を育てた偉大な教師でもありましたが、実は、その師については語るところがほとんどありません 注5)。彼もまた自ら革新的な地歩を築いた人だったようです。

 宣長と澤瀉に共通しているのは、彼らが旧来及び同時代の思想から身を引き離し、自らの立脚点を確立しようとする際に、その先駆者を発見することから仕事を始めているということです。このことが意味するのは次のことです。
 つまり、彼らは、同時代の知を批判しつつ超越していくわけですが、その際、同じようなことを行った過去の先賢に範を仰いでいるということなのです。
 言い換えれば、契沖における「創造」の歴史的な意味というものは、同じような「創造」の壁を打ち破ろうとした宣長や澤瀉によって初めて開示されたということになるでしょう。

 このように、歴史というものの内部には、その出来事の意味を明らかにするような特定の場所というものがあるのであり、上の宣長や澤瀉はそういう場所に立ったからこそ契沖という対象の歴史的な意義が格別なものとして認識され得たわけです。
 つまり、同時代的創造の意味の歴史的意味は、系譜的に相照応する関係性においてもっとも明らかに照らしだされるのです。
 わたしたちの研究が着眼する「思想史」は、まさにこの系譜的関係性に注目します。それは、知の変革者において開ける場所であり、それは系譜的に継承されていくものなのです。

 では、契沖や宣長に対してわたしたちは、どのような場所に立っているでしょうか。あるいは、立つべきなのでしょうか。
 また、江戸という時代は、わたしたちの立つ現代から見てどのような見え方をしているのでしょうか。

 ここでやはり念頭に置くべきなのは、「日本」という国家が、明治維新を通じて成立した後の時代にわたしたちが立っているという歴史的な認識でしょう。「日本」は、強力な西欧化の裏面で固有の文化と学知を捨てながら「近代」を可能にしましたが、それは漱石が言ったように「外発的の開化」であり、「内発的の開化」をないがしろにすることを意味しました(「現代日本の開化」)。
 ところが「思想史」とは、まさに、「内発的の開化」の重要な一環をなすものなのですから、わたしたちは明治維新後の強力な「外発的の開化」によってもたらされた知的断絶を修復し、認識論的な系譜をまさに現在化することを求められているのです。わかりやすく言えば、近代以降、澤瀉久孝や小林秀雄がやろうとして完遂し得なかったことを継承していくことなのであり、それは江戸において達成されたところの新たな認識の方法の意義について再発見することだと思います。

 江戸期の思想を再検討し、その正当な評価を与えることは、この不連続の連続としての「思想史」あるいは「内発的の開化」というつねにすでに歴史的に作動しているものに目を向けるための最初の目途になるでしょう。

2017年2月17日 研究代表者 西澤 一光


注1)西澤一光、「百年前の青春と煩悶――夏目漱石・西田幾多郎・折口信夫をめぐって」、波濤短歌会会誌『波濤』、2008年11月号参照のこと。
注2)佐佐木信綱、『賀茂真淵と本居宣長』、1935年、湯川弘文社、225ページ以下参照。
注3)小林秀雄、『本居宣長』、1977年、新潮社、120ページ参照。
注4)同前、122ページ参照。
注5)この点、鉄野昌弘東大教授の御教示によりました。





投稿 003
1. 本研究の概要と目的

*この項は、「本サイトの運営方針」と重なる内容も含んでいますが、ここでは特に本研究の「学問的立場」を説明いたします。

1
 本サイトは、独立行政法人日本学術振興会科学研究費補助金による助成事業として実施する研究内容について広く社会に公開し、情報の共有にもとづく学術研究の発展をはかることを目指しています。
 当面は、日本語での情報発信になりますが、態勢が整い次第、能う限りフランス語や英語での情報発信も加えていこうと計画しています。

2
 本研究は、特有の漢字文で書かれているために長らく難解なものであり続けた『万葉集』という書物が〈なぜ近世の知の地平に蘇えり得たのか?〉という根本的な問題について正面から問い直すことから出発しています。

3
 われわれの中心的な研究対象は、17世紀末に僧・契沖の著わした『万葉集』の注釈書である『万葉代匠記』とその歴史的背景です。

4
 本研究の方法は、従来の契沖研究で主流をなしてきた国学史、和歌史、文献学をふまえながらも、思想史の地平に『万葉代匠記』をすえてその意義を分析することにあります。本研究が考えている「思想史」については、改めて述べることにします。

 一言するならば、契沖には独自の思想史的な見通しがあり、そのなかで自覚的に仕事を進めていたと言えるでしょう。そして、われわれはこの点に研究の全加重をかけていると言っても過言ではありません。
 要するに、本研究は、契沖が中世的な枠組みから自覚的に脱して、古代の言語そのものに即した考え方を徹底させていった過程を明らかにすることを目指しています。

5
 本研究は、契沖の『万葉代匠記』をテキストとして読むという態度を自覚的に打ち出しています。たとえば、契沖においては思想や方法は言語化されておらず、それは注釈の中に暗黙知的に示されているという考え方がありますが、『代匠記』の「総釈」を丁寧に読めばそれが単なる先入観であることが分かるでしょう。「総釈」のテキストは、契沖の解釈学を明確に語るものになっています。
 また、『代匠記』の「初稿本」と「精撰本」の比較検討から契沖の解釈学の深化にかかる知見を整理していきたいと考えています。

6
 以上述べてきたように、われわれの研究では、契沖の思想史的自覚の裏面には彼固有の解釈学の定礎が見られています。契沖における「思想史」の地平の開けを彼の「解釈学」の確立と不即不離なものとして見ていく、それがわれわれの基本的な研究方針です。
 この方法的命題を具体的に展開していくことにより斯界の発展に貢献できれば幸甚です。

2017年2月17日 研究代表者 西澤 一光





投稿 002
本サイトの運営方針

1)情報公開の意義について

 本サイトは、独立行政法人・日本学術振興会の科学研究費助成事業として実施される研究「『万葉代匠記』の歴史的意義と思想的背景について」(基盤研究(C)(一般)、課題番号16K02378)の成果を広く社会に公開し、学術の振興に寄与することをめざしています。
 なお、当該研究の研究期間は平成28年度から平成30年度です。

2)基礎知識の普及

 本サイトは情報公開にあたって、日本文化に関心のあるすべての人を対象としています。そして、『万葉集』の解釈史上もっとも大きな寄与をした学僧・契沖について、興味と関心をもって学びたいという人にとって有益な情報を提供することをめざしています。
 たとえば、「契沖」とはどのような人物なのか、『万葉集』とはどのような書物なのかといった基本的な事項の説明も提供していきますし、専門家の論究の課題になるようなプロフェッショナルな内容も掲げていきます。

 なお、契沖を学ぶ意義については、「はじめに」にも記しましたのでご参照ください。
 また、本研究の学問的立場については「本研究の概要と目的」をご参照ください。

3)基礎的情報の提供

 本サイトは新たに契沖研究に取り組もうと考える研究者にとって有益な書誌的情報について整理し、提供していくことをめざしています。
 たとえば、研究書目についてはそれぞれの「目次」の内容を紹介していくことをめざしています。
 また、「契沖」の理解に必要となる基礎的研究の学説の紹介も行います。

4)研究の方法と諸前提

 本サイトの執筆者は、『万葉集』という古代のテキストがなぜ近世の江戸期になって初めて本格的に読めるようになったのかという問題意識を共有しています。
 この問題を、わたしたちは、契沖という個人の発明としてのみとらえるのではなく、「知」の歴史的構造の問題として捉えていきます。なぜ、古代の「知」が近世の「知」のなかで了解可能なものとなったのかが問題なのであり、興味深いことでもあるのです。

5)研究成果の適切な保存と公開について

 本研究の代表者は、独立行政法人日本学術振興会から2015年2月に公刊された『科学の健全な発展のために-誠実な科学者の心得-』の内容にそって実施される「研究倫理eラーニングコース」を修了しています。
 研究を通じて明らかになったデータは適切に保存し、適切に公開し、科学の健全な発展と公益の増進のために寄与する所存です。
以上





投稿 001
はじめに――実存における自発的思考の契機を論理化する「思想史」をめざして

 わたしたちは、17世紀の僧侶であり古典学者であった契沖を思想史的に定位しようとしています。契沖は、国学の大成者として知られている本居宣長が学問に志すきっかけとなった学者ですが、宣長の師である賀茂真淵ほどにはその名を知られていないかもしれません。しかし、もしわたしたちが「思想史」という物差しで測りなおしてみるならば、契沖がもたらした価値は思ったよりも大きなものであることが分かるでしょう。

 そもそも、今日『万葉集』がまがりなりにも読めるようになっているのは、この契沖の仕事のおかげです。今でも多くの注釈書や研究論文が契沖の『代匠記』を参照し、考察の土台として利用しています。それどころか、この状況は『代匠記』が著わされた17世紀後半から今日に至るまで一貫してつづいているのです。

 このことの意味は重要です。もし契沖が『代匠記』を著していなかったら、古代日本語で書かれた最古のテキストである『万葉集』がいまだに読解されないままだった可能性もあるからです。実際、『万葉集』は最も古い和文の資料であり、和歌文学のテキストであり、また、歴史の史料でもあります。折口信夫にとっては民俗学的な研究の資料でありました。要するに、『万葉集』は8世紀以前の列島の人びとがどう生き、何を思い、いかに表現したかを窺い知るための貴重な資料なのですが、もしこのテキストが正確に読めなかったとしたら、どうでしょうか。わたしたちは「日本」ということに関して手にしうる価値の大きな一部分を喪失してしまっていたのではないでしょうか。

 なるほど、わたしたちは『万葉集』など意識しなくても十分に豊かな日常を享受することができます。しかし、1200年以上前にこの作品集が成立していたことは、この列島の人びとの言語生活に少なからぬ影響を与えたといえるでしょう。そして、それは特に「日本」という国の文化的な水準にかかわる部分において特に強い力を発揮したといえるでしょう。たとえば、今日、アジアでも欧米でも少なからぬ研究者が『万葉集』を読み、研究しています。このこと自体、わたしたちにとっては見えない価値だと言えるでしょう。

 こういう重要な意義をもつ古典が17世紀に至るまで十分に読めなかったということ自体驚くべきことです。同時に、その時点から『万葉集』についての研究が急速に開かれていったのはなぜなのか。いずれも歴史的大問題だと言えるでしょう。

 すなわち、わたしたちがここで考えようとしているのは、なぜ、どのようにして『万葉集』は読み得るテキストになったのかという問題です。そして、わたしたちはこれを思想史的な問題として捉えようとしています。

 従来の契沖研究は、佐佐木信綱による「和歌史」からの研究、久松潜一による「文献学」からの研究が築いた基礎の上に建てられているということができます。他にも丸山真男とその学統からの思想史研究や小島憲之とその学統からの漢籍出典研究もあり、それぞれに固有の学問的意義と価値を有していますが、しかし、それらは契沖の書いたテキストを読むということに関しては補助学的な役割しか果たしていません。

 わたしたちが考える「思想史」とは、丸山真男が提示したようなものとは異なっていますし、丸山の描いた図式にのっとった従来のあらゆる研究とは異なったものとなるでしょう。なぜなら、8世紀に書かれたテキストである『万葉集』が千年近く読解不可能なままにとどまり、かつ、それが忽然として元禄年間に現在化する(actualize)という事態は、「テキスト」とこれを読む実存との年代記を超えた対話についての思考を要するからです。それは弁証法的な思考では捉えきれないものであり、実存における自発的思考の契機を論理化するような「思想史」を必要とする問題なのです。



 さて、この文章の冒頭で契沖を「17世紀の僧侶であり古典学者であった契沖」と規定しましたが、この人は真言宗の僧侶であり、真摯な求道者として生きかつ死んでいます。「古典学者」は「契沖」という人物の一面を言ったものにすぎないのです。契沖には国学についての弟子もいれば、真言仏教についての弟子もいます。

 これは江戸期の学者や思想家全般に通じることですが、契沖においてもその学問の全体は彼個人の生き方と緊密に結びついて形成されていて、「国学者」とか「古典学者」とかというような抽象化を容易に許さないところがあります。一般化や抽象化を許さないところに実存の実存性があるわけですが、ある新しい思想が創造されるところでは必ず生きてあることの意味への根源的な問い返しが伏在していると言えるでしょう。言い換えれば、思考の自発性とは自己存在についての問い直しと自覚のうえにはじめて可能になるものなのでしょう。

 わたしたちは契沖における『万葉集』の読解という問題を、こうした強烈な、根本的な問い返しにおける自覚的立場と、そこから産み出されるところの自発的思考の自発性において見ようとしています。



 歴史はつねに鏡としての意味をもっていますが、契沖のたどった知識探究への道のりを再検証することは、科学技術の進歩を謳歌しているかに見えるわたしたちの自立的思考力喪失の現状を照らし出してくれるのではないかと思います。そして、わたしたちが契沖を「文献学」という狭い枠から見ることをやめて、彼の注釈に〈読むことが考えることであるような実践〉を読みとっていくことができるならば、それはわたしたちに少なからぬ僥倖をもたらすことになるでしょう。

 ともあれ、わたしたちは3年にわたってこの基礎的な作業を学術振興会の助成事業として展開することになっています。わたしたちは、まずこの研究の諸前提と理論的枠組みについて徐々に公表する算段でおります。そして、研究の進展につれて、その諸前提と理論的枠組みから導かれる考察結果について発表していくことになるでしょう。

 わたしたちは理論と考察について広く江湖に公開し、情報の共有をはかりながら、一歩一歩研究を進捗させて行くつもりです。したがって、このサイトにおける情報の発信は、週1回程度のペースで行っていくことにいたします。インターネットを通じた情報発信が本当の意味での開かれた研究の地平の構築に資するものとなるよう願ってやみません。

2017年2月17日 研究代表者 西澤 一光