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境 域

●デリダ、文学×哲学の頂点、ついに完訳なる

全世界を覆うに至った、アリストテレス以来のヨーロッパの思考を根柢からくつがえす、まったく新しい言葉の経験。デリダ円熟期の主著として、『撒種』、『弔鐘』とともに邦訳が待ち望まれた異色作、『境域』ついに完訳。ブランショのテクストの豊富な引用を収めた、デリダによるブランショの世界へのいざない。

リンク先に書評記事の引用


著者 ジャック・デリダ (Jacques Derrida)
訳者 若森栄樹
書名 境 域
原書 Parages
体裁・価格 A5判上製 512p 定価5390円(本体4900円+税10%)
刊行日 2010年7月30日
ISBN 978-4-902854-75-6 C0010


●著者紹介

ジャック・デリダ

1930年生まれ、2004年歿。主著、『グラマトロジーについて』、『声と現象』、『エクリチュールと差異』、『哲学の余白』、『撒種』、『弔鐘』、『絵葉書』、等。

●訳者紹介

若森栄樹 (わかもり・よしき)

1946年生まれ。東京大学大学院修士課程修了。獨協大学教授(専攻、現代フランス文学、思想)。主著、『精神分析の空間』(1988年)、『日本の歌――憲法と署名の権力構造』(1995年)。訳書、J.デリダ著『絵葉書(T)』(共訳、2007年)等。

●目 次

まえおき

生き延びる
タイトル未定
ジャンルの掟
「モーリス・ブランショが死んだ」

●「まえおき」より引用

これらの〔ブランショの〕フィクション――フィクションという名をそのままにしておくことにする――を私はすでに読んでしまったと思っていた。それらを研究し、長々しく引用し、この試論をあえて公表しようとする今日、私はそれらを読んでしまったとはこれまで以上に言えなくなっている。不適切にも文芸批評または哲学の領域に位置付けられているブランショの他の作品は、はるか前から私の歩みに付き添っている。それらが私にとって親しいものとなっているということではないが、少なくとも私はそうした年月のあいだ、ブランショの作品のうちに思考の本質的運動をすでに認めたと信ずることができた。しかしフィクション作品は、あたかもそこから魅惑的な、ほのかな光しか私には到達せず、そして時々、しかし不規則な間隙をおいてしか海岸の不可視の灯台の光が私までとどかないように、霧の中に浸っているかのように、私には接近不可能だった。私はそのような留保されたような状態から作品がついに明るみに出されたというつもりはない。まさに逆である。それらは、隠匿の形そのままに、接近不可能なものの遠ざかりそれそのものとして――なぜならそれらはそうした遠ざかりに名を与えることによって、それに直面しているから――再び私の眼前に現れてきたのだった。今や避けられぬ力、最も控えめな、したがって最も挑発的な力、憑依と確信の力をもって。真理なき真理の、これらの作品についてよく言われる魅惑を超えたところから来る命令の力をもって。こうした魅惑をブランショの作品は及ぼすのではなく、横断し、描き出すのであって、魅惑の力を使う、あるいは魅惑の力と戯れるよりは、魅惑の力について考えさせるのだ。

●「境域/parages」という語について (翻訳者注1より)

パラージュ(parages)は古くは(18世紀以前)「船で航海できる海の領域」という意味で、単数形で用いられたが、現在では複数形で、一般に漠然とした「海域」を意味する。陸についても「一定の広がりを持つ領域」の意味で使われる。また日常的には「その辺に」「近くに」「まわりに」という意味になる。本書で「パラージュ」はそれらすべての意味で使われており、コンテクストによって訳し分けざるをえなかった。タイトルとしては『広辞苑』にも載っている「境域」という言葉を選んだが、それは(1)「船が航海できる海の領域」という古い意味がこのタイトルで響いていること(デリダは「生き延びる」で何度かこの語を単数形で使っている)、そして、より根本的に(2)この語がスペイン語のparar(停止する)を経由してラテン語のparareから来ていることの二つの理由による。パラージュは漠然とした、境界の曖昧な広がりなのだが、目に見えない(現前しない)境界があり、それに触れると船は座礁するか、難破するか、いずれにせよ動きが取れなくなって停止せざるをえない(主に「生き延びる」で扱われている「停止〔arrêt/アレ〕」のモチーフ参照)。この「決して現前しない、あるいはあらわれない境界」(というテーマ)は本書全体を貫いている。そのため私は「境域」が本書のタイトルとして最もふさわしいと考えた。