Shoshi Shinsui

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野上豊一郎批評集成 〈人物篇〉

観阿弥清次
世阿弥元清

能を完成させたその原点から、後世の硬直化した能を批判する

なにゆえにこの父子は空前絶後の存在であるのか。――

役者でもあり、監督でも、作詞家でも、作曲家でも、理論家でもある人間だけが至りうる境地の発見。 世阿弥一辺倒に傾きがちな能論議をこえて、二人の関係性から「能とは何か」を明かす。
   


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著者 野上豊一郎
書名 野上豊一郎批評集成 〈人物篇〉 観阿弥清次 世阿弥元清
体裁・価格 A5判上製 288p 本体価格5500円(税別)
刊行日 2010年4月30日
ISBN 978-4-902854-72-5 C0074


●著者紹介

野上豊一郎 (のがみ・とよいちろう)

1883年生、1950年歿。東京帝国大学文学部英文学科卒業。夏目漱石門下生。野上弥生子の夫。号は臼川。イギリス・ギリシャ劇の研究から能の研究へ進む。能や世阿弥の海外への紹介にも尽力し、1938年には日英交換教授として外務省から派遣され、ケンブリッジ大学などで世阿弥を講義し、自ら監修した能の初のトーキー「葵上」を紹介して反響を呼んだ。1908年の大学卒業の翌年、法政大学講師となり、予科長・学監を経て、1947年に法政大学総長となり、文学部内に能楽研究室を設置。歿後、能楽研究室が拡充されて野上記念法政大学能楽研究所が発足。同研究所は現在も能楽研究の最前線を担っている。主な著書に『能――研究と発見』『能の再生』『能の幽玄と花』の三部作、『能の話(岩波新書)』『能二百四十番』『世阿弥元清』『観阿弥清次』『能面』『能面論考』『花伝書研究』等。編集監修書に『解註謡曲全集(全6冊)』、『能楽全書(全6巻)』等。翻訳書にロチ原著『お菊さん(岩波文庫)』等。世阿弥『風姿花伝(岩波文庫)』校訂者。





●目 次


●観阿弥清次


舞台人観阿弥
作能者観阿弥
作曲者観阿弥

●世阿弥元清


世阿弥の発見
大和猿楽の擡頭
観阿弥の功績
世阿弥の生涯
世阿弥の作品
作能術の建設
幽玄と物真似
世阿弥の理論
「花」の真意義
老後の芸術心境
結 語




● 『観阿弥清次』 序 文

十年前『世阿弥元清』を書いた時、実は『観阿弥清次』を先にすべきではなかったかとも考えた。というのは、世阿弥は能楽の完成者であり、その功績の偉大は、わが国芸術史上殆んど匹儔を見出さないほどではあるけれども、しかし、譬えていえば、それは父観阿弥の築き上げた堅固な基盤の上に打ち建てられた輝かしい楼閣の如きものであるから、発展史的には、世阿弥の功績について考えて見る前に、まず観阿弥の功績について考えて見るのが順序であるように思われたからである。事実、観阿弥の仕事が行われなかったら、世阿弥の仕事も行われなかったに相違ない。その意味に於いて、世阿弥の功績は観阿弥の功績の連続とも見られる。尤も、世阿弥の方は観阿弥から入って観阿弥を出たというようなところがあり、そこに彼独自の特色があったのではあるが。もっとはっきりいえば、観阿弥は「物真似」主義者であり、同時に「幽玄」主義者でもあったが、本質的には何といっても「物真似」主義者であった。しかるに世阿弥は「物真似」主義者でもあり、また「幽玄」主義者でもあったが、より多く「幽玄」主義者であり、且つその「幽玄」そのものを恐らく観阿弥の予想だにしなかったであろう境地にまで展開させたところに特色を発揮したのであった。こういうと、いかにも世阿弥の方がえらいようでもあり、世間一般もそういう風に評価しているのであるが、しかし、此処で慎重に考えて見なければならぬことは、此の世間一般に行われている評価の裏には、能楽が今日の状態にまで展開して来た径路を最上の発展を遂げたものとして無批判に肯定している点がありはしないだろうか。言い換えれば、舞台芸術の発展の可能をもっと根本から自由に考えて見て、世阿弥の行き方だけが唯一最上の行き方だったとするのは、果して妥当であろうか。それ以外にもっと別な行き方はなかったものであろうか。たとえば、世阿弥があれほど優越した智才と感性を働かして観阿弥の「物真似」主義を更に強引に真直に推し進めたとしたならば、或いは能楽は今日見るが如き形態とは異なった別の形態のものとして発展して行ったのではなかろうか。それはどっちがよかったかは簡単にはきめられないけれども、世阿弥の行き方は――少くとも世阿弥の後年の行き方は、観阿弥の観点からすれば、「物真似」の正道をかなりひどく特異の方向へゆがめてしまったものともいえるであろう。それは「物真似」と「幽玄」の価値転換を敢てしたからだともいえる。本来「物真似」は能楽の出発点であり、且つ終局の目的であって、「幽玄」はそれを飾り立てる方便にすぎなかったものを、世阿弥が「幽玄」に過大の価値を与えたため、恰かも「幽玄」が終局の目的であったかの如くなって、――尤も、それ故にこそ能楽には品位も加わり深みも増したのではあるが、――同時に、能楽は根本の本道から離れて脇道へそれたのだとも見られる。実際、能楽は世阿弥で行き詰まって、それきり身動きのできないものになってしまった観がある。これは坦懐に考え直して見るべき問題ではなかろうか。

今一つ、観阿弥より世阿弥が高く評価される理由の一つとして、世阿弥には文筆の才能がゆたかであったことを考慮に入れなければならぬ。文筆の才能がゆたかであったことは、彼が多くのすぐれた作品を書いたことによっても証明されるが、但し、作品のことでいえば、観阿弥にもすぐれた作品はある。しかし、世阿弥は作品の外に子孫庭訓の伝書として多くの能楽理論を書き遺した。それ等はいずれも彼の卓越した芸術思想を窺うに足る堂堂たるもので、そのために彼はどのくらい有利に理解されているか知れない。ところが、観阿弥にはそれがない。そういった種類の物を彼は書かなかったのか、書いたけれども伝わらなかったのか、正確にはわからないが、多分書かなかったのであろう。彼が書かなかったから、息子の世阿弥が祖述して書き残したのであろう。少くとも『花伝書』時代の物についてはそういえる。しかし、「およそ家をまほり芸をおもんずるによつて、亡父の申しをきし事どもを心底にとどめて、たいがいを録す」(『花伝書』第三『問答条々』奥書)とある言葉をそのままに受けとってよいとすれば、観阿弥は自ら筆録の労は取らなかったけれども、能楽理論を体系づける頭脳を持っていたから、それを口ずから世阿弥に教え、世阿弥は忠実にそれを後継者に伝えようとしたものでなければならぬ。

観阿弥も世阿弥も、同時に、役者であり、演出者であり、作者であったけれども、理論家としての名誉はひとり世阿弥のみが持って、観阿弥はそれに与らなかったかの如く解されているのは、考えて見れば不合理なことである。ただ観阿弥は実行の人であって、文筆にあまり親しまなかったから、その思想を文字に書き留める機会がなかっただけのことである。一つは時代と境遇のためで、その時代は流派のきまりもまだ固定しないで、ひたすらそれを築き上げるに忙しく、彼の生活状態も東奔西走といった有様で、ゆっくり落ちついてそれを文字にする余裕もなかったものと思われる。其処へ行くと、世阿弥はむしろ幸運の人で、足利の天下も一通り安定し、父観阿弥の築いた基盤の上に立って、授けられたものをじっくり守って、一途にそれを進めて行けばよかったのであるから、文字に書き留めておくべきものは、落ちついて文字にすることができたのである。その点、近代人は殊に文書尊重の傾向があるので、思想を文字に書き留めなかった観阿弥はどのくらい損をしているか知れない。

以上の理由によって、観阿弥の真価を公平に正しく判断し直して見たいということも、私の『観阿弥清次』を書いて見ようと思い立った理由の一つであった。ところが、『世阿弥元清』の場合とちがい、観阿弥の評伝を書くには資料が甚しく貧寒であり、或る程度まで想像を働かせなければならぬ。想像を働かせることは議論が独断に陥るのを免れないことになるかも知れない。それが私に執筆を躊躇させたのであったが、しかしそれ以来私のあたまは能楽の事に触れる度ごとに常に観阿弥と結びついて、あらゆる角度から彼について考え、彼の芸術家としての影像を少しでも真実に近く思われる程度に作り上げて見ようということに向いた。もちろん、読めるだけのものは読み、調べられる限りのものは調べても見た。けれども、おおよそこういった種類の芸術家で彼はあったらしいという見当はついていても、たしかにこういった人物であったに相違ないというところまで自信が持てないのは以前とあまり変りはなかった。しかし、いつまで待っていても真実の観阿弥の影像が現前するということは期待されそうにもないから、ここいらで思い切って、自分のあたまの中に描いている彼の影像を形にあらわし、大方の批判を待つことにしようと考えるようになった。

それにつけても、何より厄介なことは、これは必ずしも観阿弥の場合に限ったことではなく、すべての舞台芸術家に共通した問題であるが、舞台芸術家を論評する場合に一番に対象となるべき演伎その物が、性質上はっきりした概念を作りにくいという障碍を持っていることである。演伎は演じられた瞬間に空間に消えてしまって、後日になって実感して見ようとしても手がかりがなく、殊に何百年も昔の芸術家に対しては殆んど絶望的で、観阿弥はおろか世阿弥とても、元雅とても、音阿弥とても、禅竹とても、皆同じことである。それにも拘らず、人はいかにも事もなげに、舞台人としての観阿弥を云云したり、世阿弥を論じたりする。それは古人の批判の記録を根拠にしてであるが、肝腎なことは、その批判に対する批判の作り方である。即ち、批判者の能力、批判者と被批判者の関係、批判のなされた事情、等、等、それ等についてよほど冷静に周到に検討を加えた上でないと、われわれはその批判が果して信憑できるか否かを決定することは困難である。

此の困難が私の観阿弥影像を一層怪しげなものにしはしまいかとひそかに恐れている。もちろん、私はなるたけ確実な資料から離れないように努力するつもりではあるけれども、前にも述べた如く、資料が甚しく貧寒であるから、それを補うためには或る程度まで独断に陥ることをあまり気にしないような行き方もしなければならないであろうし、また時としては客観的検討を上廻って直感的判断を避けていられないような事情に余儀なくされるかも知れない。その結果、私の観阿弥影像は或いは私の観阿弥詠歎の詩の如きものにならぬとも保しがたい。けれども、能うべくば私は詩にすることを避けて、なるべく批判として成立させたいと念願している。





● 『世阿弥元清』 序 文

世阿弥元清は日本文化史において、また日本芸術史において、最も特筆すべき顕著な存在であった。

彼の功績の第一は能楽の完成者としてであった。能楽以前に日本には伎楽と舞楽があったけれども、それは支那大陸から輸入された舞台芸術で、殊に後者が長い間宮廷人・上流階級者の音楽・舞踊に関する感覚を訓練するに役立ったことはなみなみならぬものであったが、未だ日本民族固有の舞台芸術の完成は、室町時代以前には遂に見ることができなかった。

世阿弥はそれを完成するのに最も都合のよい時代に生れ、また最も都合のよい境遇に置かれた。だから、世阿弥を研究するにはその時代を研究することを忘れてはならぬ。

世阿弥は役者でもあり、作者でもあり、舞台監督者でもあり、能楽理論の建設者でもあった。そうして、彼は役者としても第一流の役者であり、作者としても第一流の作者であり、舞台監督者としても第一流の舞台監督者であり、能楽理論家としても第一流の能楽理論家であった。その点、われわれをして古代ギリシアの悲劇完成者ソポクレースを思い出させる。彼も第一流の役者であり、第一流の作者であり、第一流の舞台監督者であった。しかし、彼は悲劇理論の建設者ではなかった。どちらも不世出の天才者ではあったが、智才の多方面ということからいえば、われわれの天才者の方が却ってギリシアの天才者の上に出て居るともいえる。

世阿弥の智才は、その独創性と綜合性の豊かなことにおいて、いくら称讃しても称讃しつくすということはない。彼の能楽完成に貢献した独創的・綜合的努力は、芭蕉の俳諧完成者としての、または近松の演劇完成者としてのそれに比して、優るとも劣ることのないものであった。それにもかかわらず、彼の存在が長い間われわれの文化史・芸術史の上で忘られてあったというのは、文化史研究者・芸術史研究者の責任でもあるが、世阿弥その人にとってはまことに気の毒なめぐり合せであった。

しかし、幸いにも世阿弥は発見されて、われわれの前に現前して居る。われわれは彼について吟味してみようと思う。彼は何をしたか。彼は何を考えたか。彼はなぜそうしなければならなかったか。彼はなぜそう考えなければならなかったか。そのことについて吟味して行くと、われわれは一人の世阿弥の中に多くの日本人を見出すことになるかも知れない。彼の仕事・彼の考え方は、彼一人の仕事・彼一人の考え方ではなく、多くの他の日本人のしたいと思っていた仕事であり、多くの他の日本人の考えて見たいと思っていた考え方であったことがわかるかも知れない。そうなると、もはや彼は彼だけの世阿弥ではなく、日本民族の一代表者としての世阿弥であり、日本の文化史・芸術史の上に特殊の大きな影像として立つべき世阿弥であるということができる。彼が死んでからすでに五世紀以上の歳月が経過したけれども、そうなると、彼はまだわれわれの間に強く生きて居ると見ることもできる。

私の此の小冊子は、世阿弥研究に対して極めてささやかな入門書的の役目をしか勤め得ないものであろうことは、私自身でもよく承知して居る。また、私の世阿弥についての理解が或いは独断的なものになって居りはしないかとも懼れて居る。しかし、それ等は後に来たる人たちの更に透徹した推理と更に豊富に発見されるであろう資料によって是正される日のあることを期待する。私自身もなお鈍根に鞭うって、大方の示教を待ちつつ研究を押し進めて行きたいと望んで居る。

ただかくの如く貧弱な研究でも、もしいまだ世阿弥に十分の親しみを持たなかった人に対して、これを機縁として世阿弥をよく知るようになってもらえるならば、著者としては望外の幸福である。




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