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垣内松三著作選
国民言語文化とは何か 1・2

1・国語の力(全) 2・形象理論の道

●「真実・信実・誠実」 回復の日本語論
  日本語の歴史的共同性再構築のための根本的な視座

不誠実な言葉による社会崩壊の危機が限界に達し、空疎な、しかし盛装した虚言が横行する今、そして戦後以来の転換期と目される今、(再)発見されるべき垣内松三の言語思想。風土・歴史・生活によって結晶された言葉の実相を探り、国学の可能性の中心である 「まこと」 を近代的に再理論化。初等教育から哲学まで、世阿弥、宣長から漱石まで、国民言語文化の諸問題と方法論を示す。

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著者 垣内松三 (かいとう・まつぞう)
書名 (第1巻) 垣内松三著作選 国民言語文化とは何か 1 国語の力 (全)
書名 (第2巻) 垣内松三著作選 国民言語文化とは何か 2 形象理論の道
体裁・価格 (第1巻) A5判上製 336p 本体価格5700円(税別)
体裁・価格 (第2巻) A5判上製 256p 本体価格5700円(税別)
刊行日 2011年10月30日
ISBN (第1巻) 978-4-902854-90-9 C0081
ISBN (第2巻) 978-4-902854-91-6 C0081


●著者紹介

垣内松三 (かいとう・まつぞう)

1878年岐阜県生まれ。1895年金沢第四高等学校入学。1900年同校卒業、東京帝国大学文科大学へ進学。1903年、同校卒業。同大学院へ進学、研究題目は 「国学の発達及び変遷」。1910年、東京帝国大学講師となる。その後、東京女子高等師範学校、東洋大学、東京高等師範学校、東京文理科大学の講師・教授を歴任。著書 『石叫ばむ』 『国語の力』 『形象論序説』 『国語教育科学』 等により当代の国語教育界に大きな影響を与えた。1952年歿。



●目 次

●第1巻 国語の力 (全)

国語の力 〈第四十版〉
  解釈の力
  文の形
  言語の活力
  文の律動
  国民言語文化体系

国語の力 (再稿) 真実・信実・誠実の恢復のために
  言葉の心象
  形相と形態
  気品と風格
  沈黙と談話

●第2巻 形象理論の道

形象論序説
  国民言語文化の統一性
  体系的仮定
  言語形象の科学
  言語形象の哲学
  国民言語文化の実践性

言語形象性を語る
  栄螺の殼 (形象理論講話)
  素焼の瓶 (続 形象理論講話)



●「形象理論」について

垣内松三の唱えた 「形象理論」 あるいは 「形象」 の概念、そして 「国民言語文化(の統一性)」 という思想は、垣内松三の仕事全体を貫いている。しかしその意味するところはなかなかつかみにくく、読み進めるに従って徐々に分ってくるような種類のものである。以下はその意味するところを、あらかじめある程度つかむよすがとなる、本書からの引用である。

●「言語と精神との相関関係を 「力」 と認め、それを解明するために、其の 「動力的統一の構造」 を 「形象」 と名づけ、その全構造としての 「形象性」 を研究する理論的操作を組織的に、体系的に整序するために、幾多の学説と、多年の体験とを駆使して、この考察にあたったのであったが、当然その中心に於てこれを統率する根源性を把握することが究竟の問題であると考えた。それを仮に 「統一性」 と名づけた。」(第2巻191ページ)

●「ここに形象作用というのは、形式又は形態をいうのでなく、恰も水蒸気の寒冷のために凝結して、雪片の微妙なる形象に結晶するように、社会層又は時代層の雰囲気に依って、作家の精神の内面に於ける、文学形象が結晶せられる、作用をいうのである。」(第2巻65ページ)

●「形象作用は 「こころ」 と 「ことば」 とを繋ぐ作用として顕わすことができるのであるが、「こころ」 と 「ことば」 とは繋がれるものであって、これを 「繋ぐもの」 は 「繋がれるもの」 に先行しなければならぬ。理会作用はこの結晶の力である。しかし 「繋がれるもの」 なしには 「繋ぐもの」 を知ることはできない。嘗つて謂ったように、雪片を手にして、その微妙なる結晶を見んとする時、掌上に在るものは一滴の水である。もし雪片の微妙なる結晶を視んとせば、直下に観取しなければならないのである。水滴を分析して微妙なる結晶を見んとするごときは、「形象」 と 「理会」 との真相に参入するものではない。風土と歴史によりて結晶せられたる言葉の実相はこの全機を参究するのでなければ把握することはできない。」(第2巻90ページ)

●「此際、形象に配するにGebilde(形像)を以てするのは、この解明に於ける一切の誤解と無理解とを誘導する原因であるらしく、もしドイツ語を対比することを欲するならば、ゲシュタルトGestaltの方がそれに近いのである。本来 「形象」 は中世歌学に於ける 「様」 「姿」、更にそれを依拠とする、富士谷成章及び御杖の学説と連関し、皆川淇園、佐藤一斎、平田篤胤等のそれとも関係を有するのであって、外国語から説明しなければならない系譜を持つ術語ではない。形像は形象の外化の極限に於ける可聴的もしくは可視的記号の集積である。これと相対するのは、形相である。その象徴的連関が形象である。」(第2巻154ページ)

●「解釈学を成立せしめる根基は形象性である。それは言葉の動力的統一の構造であった。国民言語文化の実践性はその条理を明証することの外何ものでもない。日本言語文化の実践性は古来 「和敬」 を尊び、「秩序」 を求め、「進歩」 を欲する心であった。そうした統一性に於ける、真実性の徹見と実践性の果敢こそ、永代遺産として国民言語文化を将来に伝えるわれわれの心構であらねばならぬ。」(第2巻158ページ)

●「前にも少しく触れたと思うが、すでに本居宣長の学説は現代の意義学・象徴学に先立ち、富士谷御杖の学説は現象学的研究に先だつこと一世紀以前にある。この素朴な学説が、これまで充分に発展せしめられなかったために、われわれの学問の領域に於て混乱を生じて居るのである。これを整理することが、先ず形象理論の最初の課題であると考えた。
「形象」 及び 「形象理論」 は何等外国の学説の翻訳でも、紹介でもなく、またその名儀は決して伝統を無視して作ったのでもなく、少くとも我が国に於て伝統的に極めて少数の人々の間に持続せられた考えであった。とにかく、形象理論は歴史的にすでに先哲の求めたものを、現代の精神科学によって明確にせんと欲したもので、少しも突飛な学説でもなく、また何等か新奇を衒うようなものでもない。そう感ぜられるのは、約一世紀間、学問の進展方向を他に導き、伝統を無視し、世界的水準に広めて、反省しなかったためであって、これを転回せしめて進展を図るためには、誤解と侮蔑と、同時に圧迫を予期しなければならない。」(第2巻192ページ)