Shoshi Shinsui

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『言語と文学』 もうひとつの著者紹介


(C) Kuniko YAMAMURA, Hideo NOMURA & Shoshi SHINSUI, All rights reserved

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Maurice BLANCHOT (モーリス・ブランショ)

1907年9月22日、ソーヌ・エ・ロワール県のカンに生まれる。ストラスブール大学でエマニュエル・レヴィナスと出会い、彼を通じてハイデガーを知る。1931年から『ジュルナル・デ・デバ』紙の編集に加わり、その後37、8年頃まで極右系の新聞雑誌で、精神革命を唱える過激な政治論文の執筆に携わる。

40年代初頭には、一時ヴィシー政権の支援する文化組織「若きフランス」に協力したこと、ポーランの推挙で『NRF』誌の編集にも関わったことなどが知られているが、41年には最初の小説(ロマン)である『謎の男トマ』を出版、また同年から『ジュルナル・デ・デバ』紙で文芸時評の連載を開始しており、占領下の混乱期に、政治的には極めて錯綜した立場に身を置きつつ、政治論文から文学への転向を果たしたと言える。

文学者としてのブランショは、作品の絶対性を重視し、作者はその背後に姿を消すしかないとするその思想から、自身の経歴や写真を公表せず、ほぼ晩年まで徹底した匿名性を貫いた。『文学空間』(1955)、『来るべき書物』(1959)などで、文学と言語、そして死を考察する非妥協的な文学理念を構築する一方、60年代初め頃までは『至高者』(1948)、『期待・忘却』(1962)など小説の執筆も並行して行なうことになる。

また後期の著作においては、ジャック・デリダとの思想的共振の重要性を指摘しておかねばならないだろう。戦後20年の間政治的には沈黙していたブランショは、反アルジェリア戦争の立場から政治的発言を再開、68年の5月革命の際にも〈作家学生行動委員会〉の一員として活動し、無署名の政治的パンフレットを執筆した。こうした政治行動を支えたのは、その文学理念に通底する〈無名の共同体〉の思想であり、『明かしえぬ共同体』(1983)は、ブランショの後期の政治行動と文学活動の橋渡しをする著作であるとも言えるだろう。

94年発表の『私の死の瞬間』は、自伝とも、半ばフィクションともつかぬ形で、大戦末期にドイツ軍に銃殺されかけ、間一髪のところで生き延びた「私」の経験を語るものだが、この著作が実質的な遺作となった。

2003年2月20日、パリ近郊の自宅にて死去。

(山邑久仁子 記)




Jean PAULHAN (ジャン・ポーラン)

1884年、南仏ニームに生まれる。1907年、教授としてアフリカに渡り、3年ほどマダガスカルに滞在。その間、金鉱採掘にも手をだす。パリに戻り、東洋語学校でマダガスカル語を教える。1914年、第一次大戦に従軍し負傷。戦後シュルレアリスムの雑誌『文学』に協力。1920年、J・リヴィエールのあとを承けて『NRF』誌の秘書となる。1936年にはその発行人となるが、その間に多くの作家を世に送り出す。

第二次大戦中は抵抗運動(レジスタンス)に参加、言語を離れて暴力の世界にかかわることに拭い難い《恥辱(オント)》を経験する。1941年、J・ドクールと共に謄写版刷りの『フランス文学』誌を発行、翌42年に《深夜叢書》社を創設し、独軍占領下にあって辛うじてフランス文学の独立をまもる。戦後ガリマール社の文学主任として新人の発掘に努める一方、『カイエ・ド・プレイアド』誌を創刊。さらに53年、アルランと共に『新NRF』誌を復刊する。

彼の立場は以上のように、前衛(『文学』誌、『フランス文学』誌、『深夜叢書』社)から伝統(『NRF』誌、『新NRF』誌)へといわば両立不可能な両極に相渉る。おそらくその辺に、『タルブの花』(1941)から『明暗』(1958)、さらに『言霊』(1967)へと追求された、言語即文学という本来的に近代的なその問題提起は胚胎するものと思われる。

1963年、フランス・アカデミーの会員に立候補し選出される。辛口のF・モーリヤックから“奇蹟”と皮肉られる。

1968年、没。

(野村英夫 記)