Shoshi Shinsui
『『モモ』と考える時間とお金の秘密』 からの引用です(黒字が引用文)。



●引用その1● 人間でないものも言葉を発する。――そこに人間がいるならば

モモが灰色の男の内心のほんとうの声を聞くことができたのは、彼らのうわべの話を信じず、それと闘ったからでした。子どもたちがモモの話に納得したのも、大人が、時間を節約することで子どもに時間を与えなくなっていたからでした。でも、子どものデモ行進とアピールは、なぜ、大人に届かなかったのでしょうか。

そのひとつの理由は、大人たちが灰色の男たちにそそのかされて契約した時間の節約が、自分の自発的な決意と思い込まされていることにある事は言うまでもありません。大人たちの場合、灰色の男の話を信じてしまったので、それがあたかも自身の自発的決意であるかのように思い込んでしまったのですが、それを疑ったモモは、灰色の男の「話す声はきこえるし、ことばは聞こえるのですが、話すひとの心は聞こえてこない」(『モモ』124頁)ことを知ったのです。

モモはここで灰色の男が人間の心をもたず、ふつうの人間ではないことに気づきました。しかしこの人間でないものが声を出し、そしてそのことばの意味が人間にわかってしまいます。資本が、増殖しよう、お金をもうけよう、という声を出し、その意味を理解した人間は、このお金もうけという決意が、自分自身の自発的な意志だと考えざるをえないのです。

人間でないもの、資本や貨幣や商品が、人間にわかることばを発信できるということになりますと、このことばを聞いた人間は、物がことばをもつはずはないと考えて、それを自分のことばだと思ってしまいます。人間以外のものに人間の意志が支配されている、モモはこのことを見抜いたのでした。

この限りでは、灰色の男は、人の時間をぬすむという正体をかくしておく必要はありません。なぜなら、人間には、資本が灰色の男という人間の姿をとったものとしてはとらえられないからです。逆に、人間でないものが人間として現われているということが、ほんとうの意味での資本の正体とは言えないでしょうか。エンデの物語は、資本を灰色の男という人格として登場させ、その男の「話す声は聞こえるし、ことばは聞こえるのですが、話すひとの心は聞こえてこない」(『モモ』124頁)そのような人格として、人間でないものが話をし人間の意志を支配するという「物象化(ぶっしょうか)」の様式の正体を描いたことに、その意義を求めるべきだと思います。

次に、物象化という様式の特徴は、「物神性(ぶっしんせい)」を伴うことで、正体を隠しておくということが、ほんとうに上手なことです。資本は、物象化によって、人間でないものが意志をもったもの、人間的なものとして現われていながら、人間の眼には単なる物にしか見えません。ここから、物に社会的な力が備わっているかのように見える物神性が生まれ、お金自身に購買力があり、人間を支配する力をもっているかのように思わせてしまいます。このお金の物神性が、資本の正体を見えなくしてしまっているのです。だから灰色の男の内心のほんとうの声にある「人間から生きる時間を一時間、一分、一秒とむしりとる」ということも、どのような事態なのかぜんぜんわかりません。



●引用その2● 自発的な決意――主体(subject)性のミステリー

上記の話題の続きとして、『『モモ』と考える時間とお金の秘密』からもうひとつ引いてみました。 エンデはフィクションの手法によることで、「灰色の男」という不可視性の純度の高い存在を、読者の目に見えるようにすることができました。物象化をとらえる科学の力と響きあう、フィクションの力というものが感じられます。

時間を節約して時間貯蓄銀行に預けておけば利子がついて返ってくるという殺し文句でフージー氏を納得させた灰色の男は、「契約書は? 署名は?」と問うフージー氏にたいして、次のように回答しました。

「なんでそんなものがいるんです? 時間貯蓄は、ほかのどんな種類の貯蓄とも、まるっきりちがうんですよ。それは完全な信頼の上になりたっています――双方の信頼に わたくしどもは、あなたの同意のことばがあれば、それで充分です。そのことばは、取り消せません。そしてわたくしどもは、あなたがちゃんと倹約するかどうかを気をつけています。でも、どのくらい倹約するかは、あなたにまかせます。強制なぞしませんよ。」(『モモ』90頁)

なぜ、契約書が不必要なのでしょうか。なぜ、時間の倹約を強制しないのでしょうか。契約書をつくったり、倹約を強制したりすれば、人間に気づかれてしまいます。人間に気づかれないように、このような配慮がなされているとすれば、では、灰色の男たちは、どのようにして人間に時間を倹約させることができるのでしょうか。その謎は、次のように述べられています。

「けむりが消えるにつれて、鏡に書かれた数字もぼやけてきました。そして完全に見えなくなったときには、フージー氏の頭の中から灰色の訪問者の記憶もすっかり消えていました。でもわすれたのは灰色の紳士のことだけで、そのときのとりきめのことではありません。そちらのほうは、いまではじぶんひとりできめた決定のように思えました。将来いつかいまとはちがった人生を始められるように、いまから時間をためておこうという決心は、けっして抜けない鈎針(かぎばり)のように彼の心にしっかりくいこんでいました。」(『モモ』90頁)

なるほど、フージー氏にとって、灰色の男との契約は、灰色の男のことを忘れてしまうことで、なんと、自分の自発的な決意と思い込まされてしまっています。これなら契約書も不必要だし、強制もいりません。ところがフージー氏にとって自発的な決意と思わされている時間の倹約は、それを実行すると、フージー氏を不自由にしてしまいます。



●引用その3● 『モモ』論と価値形態論の可能性――お金と言語が「ツール」ではなくて○○自体であるならば

下記引用は『『モモ』と考える時間とお金の秘密』の記述のなかでは特にかたい一節ですが、見逃せない着想が示されているところです。

エンデは現代の主知主義が主体と客体という二元論からなるマテリアリズムにおかされていると見、そしてこの発想から問題をつきつめていくと、けっきょくは自分につきあたり、「人間の意識とはなにか」という問の前に立たされると述べています。「ぼくたちは『客観的』現実をさがしていたまさにその場所で、ぼくたちじしんの意識を、鏡に映しかえされるようにして手にいれる。」(『オリーブの森で語りあう』全集15巻、115頁)これが現代の主知主義の限界だとエンデはみているのですが、この限界で自分に返ってくることについて、エンデはゲーテの「なにも内側にはなく、なにも外側にはない。内側にあるものは、外側にあるのだ」ということばを引いて、これを「じつに精確に表現している」(同、115頁)と評価しています。

この思考の限界について、わたしは次のように考えています。まずこの限界は人間の思考が言語記号を媒介にしていることとかかわっています。人間は対象を認識しようとするとき、対象と主体の間に両者を関係づける意識を働かせますが、その際、この意識が言語記号によって社会的意識形態として外化させられています。この媒介者である社会的意識形態からすれば、内側である主体のなかにはなにもなく、また外側である対象のなかにもなにもありません。そこには内側にある主体と外側にある対象とが結びつけられた第三者があり、そこには内側にあるものは外側にある、という構造を見出すことができます。

言語記号のこの二重性に気づいた人は、ソシュールでした。ソシュールは言語記号をシニフィアン(意味するもの、音響心象)とシニフィエ(意味されるもの、概念)が紙の裏表のように結びついたものととらえました。この言語記号の二重性が、言語によって構成されている社会的意識形態に内側と外側とを結びつける働きをもたらしており、こうして人びとはこの社会的意識形態を媒介にして、みずからの意識を交流させあうことができるのです。

ではどうしてこのようなことが可能なのでしょうか。それは言語自体のなかにコミュニケーションの機能が含まれていることを解明することによって明らかにされるでしょうが、このようなことはいまだかつて試みられたことはありません。従来の学説では、言語はコミュニケーションの道具とみなされていて、言語自体にコミュニケーションの機能を発見するという研究はなされてはいないのです。ところで、この新たな試みに挑戦しようとするとき、ひじょうに有力な手がかりがあります。それこそは、マルクスが『資本論』で解明した価値形態論に他なりません。

マルクス以前の経済学では貨幣は交換の道具ととらえられていて、貨幣自体に商品交換の機能が含まれているとは考えられていませんでした。もし、貨幣に交換の機能が含まれているととらえるならば、商品自体にその要因を求めなければならなくなります。商品の価値形態とは、商品に含まれている交換の機能の表現であり、マルクスは、貨幣を商品の価値形態の発展の極にある貨幣形態として示すことで、貨幣に商品交換の機能が含まれていることを明らかにしたのでした。

マルクスが商品の価値形態の秘密について解明したにもかかわらず、後に続く経済学者たちは、このマルクスの作業について理解できませんでした。マルクスの価値形態論は経済学者にとってはずっと謎のままでした。というのも、マルクスは価値形態の解明にあたって、科学知の方法を超えた方法(この科学知を批判的に再構成した知を、わたしは文化知と呼びます)を採用していたので、科学知の方法しか知らない今日の経済学者にとっては理解不能だったのです。

ところでエンデは眼に見えないものの実在を主張した人でした。もしエンデがこの眼に見えないものを、眼に見える諸物の関係において、人間の社会性が現象するそのような現象形態ととらえていたらどうなったでしょうか。そうすれば、マルクスの価値形態論はその核心において理解されたことになります。

ふたつの商品の価値関係にあっては、ふたつの商品の使用価値は眼に見えますが、価値の現象形態は眼に見えません。しかし、商品は、価値の現象形態をとることで、交換という機能をもつのですから、この眼に見えない価値の現象形態を解明することなしには、交換の機能を解明することはできません。そして、この現象形態は、自然物に社会的な力を与える形態規定の論理によって認識することができます。

このマルクスの価値形態解明の方法を言語記号の解明に用いるとどうなるでしょうか。ソシュールが発見した言語記号の二重性を出発点に置いてみましょう。言語記号をシニフィアンとシニフィエの二重性ととらえたソシュールの地平からの第一歩は、言語記号による名づけに際して、記号と対象との間に眼に見えない現象形態の実在を想定することです。そうすると、言語記号はこの現象形態によって形態規定されて、単なる音でありながら、社会的なものである概念の化身とされていることが解ります。このことが解れば、人間は発話にあっては、単なる音をやりとりすることで、概念をゆききさせていることが簡単に了解できます。

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