書肆心水・総合ページへ

格差と文明――イスラーム・仏教・現代の危機

現代の危機をこえる公共的文明観

格差問題の核心は政治論をこえた文明論のレベルにあることを指摘。井筒俊彦の東洋思想構造論を文明論へと拡張し、非欧米文明の再解釈による脱グローバル支配の可能性を提示。一元的支配文明から複合的共存文明への転換をはかり、他者の尊重を基本とする文明観を提唱する。

ここのリンク先で本書のなかをご覧いただけます(PDFファイル)


著者 黒田壽郎
書名 格差と文明――イスラーム・仏教・現代の危機
体裁・価格 四六判上製 288p 定価3630円(本体3300円+税10%)
刊行 2016年3月
ISBN 978-4-906917-52-5 C0014

●著者紹介

黒田壽郎(くろだ・としお) 1933年生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒業、同大学院文学研究科博士課程東洋史専攻修了。カイロ大学客員教授、イラン王立哲学アカデミー教授、国際大学中東研究所初代所長を歴任。著書、『イスラームの構造(増補新版)』『イスラームの心』『イスラームの反体制』など。編著、『イスラーム辞典』など。訳書、コルバン『イスラーム哲学史』(共訳)、イブン・ハズム『鳩の頸飾り』、ガザーリー『哲学者の意図』、バーキルッ=サドル『イスラーム経済論』『イスラーム哲学』、アッ=タバータバーイー『現代イスラーム哲学』(第19回イラン・イスラーム共和国年間最優秀図書賞受賞(2012年))、ハッラーク『イスラーム法理論の歴史』など。2018年歿。

●目 次

格差と文明――文明評価の操作概念としての〈滑らかな空間〉の論理とその射程
1 現代文明における格差の拡大と〈溝つき空間〉の論理の役割
2 真の外部性と〈滑らかな空間〉の論理
3 井筒俊彦の東洋思想論を文明論へと拡張する

イスラーム文明の本質と民衆の優先性
1 タウヒードと三つの準則
2 イスラームの歴史観
3 民衆の優先性

統治と文明――交換、徴収と配分、贈与
1 グローバリゼーションと覇権主義
2 交換、徴収と配分、贈与
3 等価性と同一律をこえるもの
4 文明と差異的なもの

公共性と文化――国家と個人のあいだ
1 民主主義・国民国家・資本主義
2 〈ひと〉の活力喪失
3 グローバリゼーションと福祉国家の限界
4 国の介在しない公共性

外部性の回復と文化の課題――イスラームと仏教の世界観から
1 有効期限切れの価値観
2 イスラーム文明の三極構造
3 仏教文明の三極構造
4 文明の構造の組みかえと他者性の問題

他者から自己へ――〈滑らかな空間〉の論理とその構造
1 自他とその境界
2 他者の優先性
3 〈滑らかな空間〉と主体性
4 個的存在の〈分有〉

共同体を構成する公共的贈与――伝統的思考法の再利用
1 共同体の均質化と国民国家
2 主体と客体の不可分性
3 交換的な価値体系と贈与的な価値体系

イスラーム共同体の重層構造――公有、贈与、市場
1 イスラームにおける公共性
2 イスラームの公共的諸制度

末法の構造と慈悲の形――現代における宗教の意義
1 鎌倉仏教と末法
2 未曽有の危機

●本書について

世界的な格差問題の解決のためには「政治論」をこえた「文明論」が必要であるとする問題提起の書。長年イスラームの社会制度の歴史を研究してきた立場から、イスラーム文明においては、時々の国家的な統治がいかなるものであっても、それに左右されない公共的で公正な社会を維持するために、「交換」「徴収と配分」「贈与」を適切にアレンジする仕組みがあったことを、具体例を示し明らかにする。

現代文明は、社会を「国家」と「個人」の二極に分断し、国家と個人のあいだに存在すべき「公共」というものを消滅させた。この「公共」の領域は「贈与」の生じるところであり、人間の福祉にとって重要な機能を果たすものである。本書は、社会がその機能を回復するために、伝統的思考法を再利用することが重要であると指摘する。

仏教文明においては、イスラーム文明のようにその思想が社会制度として具体化することは稀であったが、自己と他者の関係の認識方法に共通するものがあり、それが現在の公共性を喪失した文明に対するオルタナティブとしてもつ意味を本書は説く。

日本のイスラーム研究を開拓した井筒俊彦は、イスラームと仏教を貫く東洋思想の構造を哲学的に解明した。本書は井筒俊彦のもっぱら哲学的であった東洋思想の構造論を文明論へと拡張し、公正で公共的な文明への転換のために、イスラームと仏教を通して、文明における「聖」と「俗」の関係を根本的に見直す視座を提供する。

●本書あとがきより

本書は、前著『イスラームの構造』と対をなす姉妹作といいうるものである。前著ではイスラームの教えの原動力となる基本的な動力源として三つの要素、タウヒード、シャリーア、ウンマを核として取り上げ、その三つが共に参加して作り出す場をイスラーム性が作用する磁場と捉え、その特性、そこでそれぞれの極が果たす機能、役割の分析を行った。このようにイスラームを構成する諸要素を、個別的ではなく、総合的に関連させて分析した例はこれまでに存在してはおらず、この点で研究史的に画期的なものであるといささか自負しているところである。

イスラーム的なものが創出される原点を構造的に解明した前著に対してこの著作は別の特徴を持つものである。本著の冒頭の部分は、前述の三極構造から発せられるイスラーム的なエネルギーが現実に作り上げる世界の構成の特質を想定しながら、それが現状といかに向き合い、われわれが現に直面している大型の文明の危機にどのように対処しうるかという問題を概観した。東洋思想の有意義性については、このような観点から今後ますます積極的な論議が展開されるべきであろう。冒頭の部分はそのための小規模なマニフェストである。

それに続く論議はその大半が、イスラームならびに仏教をベースにした、東洋的世界の政治、社会、文化の構造的特質を立証したものである。例証としてはとりわけ聖俗の分離を徹底的に拒んできたイスラーム世界の分析が多いが、文化的、文明的なあらゆる象限における他力的な特徴を立証することに務めた。上から下への権力の垂直的な貫通を拒み、果てしなく外部へ力を水平的に分散させるような、〈滑らかな空間〉の論理を強調する諸制度が、東洋世界には埋め尽されている。このような伝統を作り上げてきたのは、自己の側からではなく、他者の側から共同性を築き上げてきた長い伝統のなせる業で、少数の権力者たちだけで生み出されるものではない。主役をになう民衆のそれぞれが、他者性のイニシアティヴに支えられて稔らせたものである。歴史認識の様態から、国家観、経済制度の特殊性等、多くの例について言及したが、これらは未だに述べたいことのほんの一端にしか過ぎない。ただし本書の紙幅の限りでは、この地域にあふれる〈滑らかな空間〉の論理が、いかに独自な文化、文明圏を具体的に築き上げてきたかについて、確実な眺望を示すことができれば充分であろう。これはイスラームの三極構造を理解せずには絶対に見えてこないものであり、その意味では親愛なる読者の皆さんとはここで共通の出発点を分かち合えたこととなる。