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▽ 1. 原型としての戦後体験とフランス文学研究
▽ 2. 井筒俊彦門下と中東留学――アラビア語の習得
▽ 3. イスラーム哲学・思想
▽ 4. シャリーア(イスラーム法)研究
▽ 5. イスラーム経済研究
▽ 6. 現地生活の研究における意義
▽ 7. 主要著作翻訳活動
●原型としての戦後体験とフランス文学研究
一九三三年生まれのわたしにとって、やはり知的な経歴と戦後の体験とは切り離せないところがあります。敗戦を小学六年で迎えましたが、戦後の日本というのは大きな日本の分岐点であって、それまでの伝統的な日本に外国の生き様のようなものが入ってきたわけです。そういうところで、生きる形の激変を直に、廃墟のなかの体験として生きまして、自分のアイデンティティに対する疑念のようなものを非常に強く感じるようになりました。それまでの軍国主義の風潮が、ある時ぽかっとなくなったわけでして、非常に爽快感があり、暗い過去をふっきっての明るい展望が開けてきたのと同時に、自分自身が何なのかということに深い疑問を持ちつづける日々を送りました。そういう類の空白のようなものに対して、一番頼りになるのは文学であるとわたしは思います。
一口に文学と申しましても、近頃の文学には共感を覚えるものがまずないのですが、わたしの少年・青年時代にとって文学というのは自分の生き様を全体的に確かめるためのよすがとしてなくてはならないものとしてありました。さまざまな文学作品を読み漁りました。ともかくはっきり言えることは、日本の文学にはまったく興味を抱くことがなくて、フランスの近現代の小説なり詩なりというものに非常にひかれました。
大学の学部時代にはアンドレ・マルローに関して論文を書き、大学院でもフランス文学をやりまして、フローベールの文体論をやりました。それは、自分の生き様と現実というものが何を媒介としてどういう接点を持ちうるのかということを考えることであったように思います。マルローは周知のように一種の人間の生き様と生の意味を究明していましたし、フローベールの場合はものを書くということ、つまり文体をもっていかに現実の生を語りうるかということを非常に真剣に考えた人です。そういった意味で、行動なり表現とリアリティーといったものの接点を探ることをやったのです。
しかし、何年かやっているうちに、いかにフランスの文学が素晴らしいものであり自分にとって啓示的であったとしても、やはり自分の本当の心の系譜とはどこか違うのではないかという印象がありまして、そこで自分たちの文化的なバックボーンについて考え始めました。日本人というのはよく言われるように多元的な精神性を持っていて、過去に神道、仏教、儒教があったといってみたところで、そういうものとの関わりだけ論じてみても、現在の自分は語り尽くせないところがあります。かといって、当時の風潮として、欧米のことをやっていればそれで世界が分かるし日本の問題も解決できるという考え方が戦後数十年は強かったのですが、それに対してはやはり違和感がありました。欧米と日本だけ分かっていれば自分の問題も処理できるのだという、言わば欧米中心主義のようなものに非常に違和感を覚えたのです。
わたしなどは恐らく、そういうものを徹底的に懐疑してみようという戦後では最初の世代ではないかと思います。欧米の精神文化には非常にひかれましたが、それをどこかで一度対象化して、それを客観化して捉えなおす必要があるのではないかと感じ始めまして、これは大学でフローベールの文体論などをやりながらある種到達したともいえる境地でした。そういう意味でわたしはフローベールには非常に教わりました。フローベールはあれほど見事な文体を実践したわけですが、凡そ三十年がかりの三つのヴァージョンをもった、いってみれば奇妙奇天烈な文体をもつ『聖アントワーヌの誘惑』がそうであるように、一作書くごとに、自分の業績を打ち壊すような作品を書いています。フローベールが自分の文体に対して本質的に疑問を持つというそのあり方が、自分のアイデンティティー理解と重なったような感じがしました。わたし自身の西洋文化、西洋文学に対する志向のようなものを相対化する契機となったのです。そういう意味で今でもフローベールには感謝しています。フローベールを嫌う人たちも多いでしょうが、フローベールの批評精神のようなものが教えてくれたものは大きかったと思います。当時わたしはフランス文学の専門家になろうと思っていたところがありましたし、事実、慶応大学でもわたしの先生は佐藤朔さんでして、その先生からも慶応大学に残ってフランス文学を教えなさいとお誘いを受けたことがありました。しかし結局、その道に進むことは選ばずに、当時慶応大学にいらした井筒俊彦先生につくというかたちで大学院の専攻を変えました。
井筒先生の魅力は世界の文化・文明というものを非常に多元的に捉えていることにありました。周知のように大変な語学の天才でしたから、さまざまな語学をやりながらさまざまな文明について等分の視線を注ぐ、そのものの見方にとても強くひかれまして、わけもわからぬままに、井筒先生の「アラビア語でもやってみたらどうか」というご示唆に従って、アラビア語の世界に入りました。これがアラビア世界、中東世界研究の始まりです。そうは申しましても、先生がやったらどうかと仰ったから始めたというだけではなくて、自分自身としては、当時の自分の専門をいま少し客体化・相対化するという内的動機がありました。もう少し敷延すれば、結局のところそれは自分自身の日本人性のようなものを確認するためにそういう手続きを経ることも必要だろうという考えでもありました。制度的に申しあげれば、フランス文学でマスターコースをとったうえに、またもう一つマスターコースを取り直して、井筒先生についてアラビア語を勉強したということになります。
なぜ当時わたしにとって他ならぬアラビア文化であったのか? 先に述べましたように西欧を相対化したかったと同時に、日本人性も相対化したかったのです。そうすると、中国とかインドとか色々ありますが、これらは遠いようで近いようなところがあって、西洋と自分の相対化を考えていた自分としては、いっそのこと全然こちらの見慣れていない文化・文明、こちらを本当に相対化してくれるであろう未知の文明、アラブ・中東世界に飛び込んだというわけです。
●井筒俊彦門下と中東留学――アラビア語の習得
わたしが中東・イスラーム研究の世界に入った当時は、今とはまったく研究環境が違いました。アラビア語の講座もなくて、今そういわれれば、例外的に大阪外語大学に語学学校のような形で講座があるだけでした。どこに籍を置くかということで大変苦労致しました。井筒先生の肝煎で、絹の道の向こうに研究対象そのものの中東世界があるのだからということで、さしあたって東洋史に在籍させていただきました。およそこういう次第でアラブ研究を始めました。
ところが井筒先生はわたしが転科したその年にカナダのマックギル大学に呼ばれてしまいまして、転科はしたもののすぐに先生がいなくなってしまったのです。それで大変苦労致しました。しかたがないので当時の、日本・エジプトの文化交流の一環としてのエジプトへの留学生の試験を受けまして、カイロ大学に大学院生として入学しました。アラビア語というのは非常に難しい言語でして、勉強し始めて一年や二年ではどうにもならない。アラビア語はひと月の間文法を井筒先生に習いまして、あと二、三か月アラビア語の詩を習いました。その後井筒先生はカナダにお出かけになってしまったので、一人で学習を進め、一、二年で向こうへ行ったものですから、アラビア語が満足にできるはずもない。そうした事情もあって、専門の選択としては、アラビアの文化や伝統を学ぶうえで比較的入りやすい歴史学・イスラーム史を専門にしました。
歴史研究も向こうにはある種の伝統、前提がありました。正統四代カリフだとかウマイヤ朝だとかやるわけですが、向こうでは正統四代カリフというものが批判の余地のない理想的な時代だとされていて、現地の人々はたとえばそれをあまり批判的には見ない。「預言者世にいれられず」とは日本などでよく言われることわざですが、イスラームの場合は正に世にいれられた預言者なのであって、しかも、アラビア半島の一角でたてた教えが瞬くうちに広がって、百年たたずに大帝国を作ってしまう。
イスラーム世界におけるイスラームを見るうえでは、建設的な要素と破滅的な要素の二つを見ていかなければならないと思うのですが、イスラームというのは周知のように今でも十数億の信者がいます。そうしますと、それだけ持続性と発展性を持っているということになります。それと同時に、かつては光そのものであったイスラームが歴史の流れと共に退嬰化してゆく、そのいわゆる没落過程も明らかなわけでして、結局それがいつの時代にどういうかたちで始まったのかということがどうしても究めてみなければいけない一つの仕事なのです。
エジプトで研究テーマを何にしようかと考えていたときに、ハワーリジュ派という、いわゆるイスラーム世界で初めて出てきた反体制の派がありますが、それを研究の主題にしようと決めました。わたしにとって大変でもありましたが興味深かったのは、イスラーム世界ではハワーリジュ派を研究対象にするなどということは憚られることなのです。反体制派ですから。この反体制派の詩人たちのアンソロジーのようなものがあるのですが、それを分析し、またその詩の背後にある歴史的状況なり思想的神学的状況を調べながら、というスタイルの「ハワーリジュ派の詩の分析」をやりました。そのためには歴史も学ばなければならないし、同時に神学もやらなければならない。法学も政治論のようなものにも関わってきます。わたしがこの主題に取り組んでよかったと思うのは、イスラームというものは個別的に、ただ単に宗教としてのイスラームとかイスラームの神学とかイスラームの法学とかを個別的にやっていただけではまったくその姿をつかむことはできない、それらが密接に組み合わされて全てが動いているということがよくわかったことです。
イスラーム性のネットワークがいかに働いていて、どういう破綻が生じるとどういう問題が起きるか、つまりイスラームの力そのものの構成と発展、そして分解過程というものの形態が、イスラーム最初の分派ハワーリジュ派、一番最初のケースであるハワーリジュ派をめぐる状況からよく見えてまいります。正統四代カリフ時代という最も高度にイスラーム性が発揮された時代に起こった反体制運動ですから、実によくその辺の機微がわかるのです。これを専ら研究致しましてドクター論文を仕上げました。単行本としてはだいぶあとになってからこれをベースに『イスラームの反体制』として発表しました。
イスラーム研究というものにはさまざまな専門がありまして、例えば歴史研究なら、正統四代カリフの時代からウマイヤ朝にかけてのものとか、アッバース朝の歴史を見るとか、現代を分析するとか、こうしたさまざまなものがありますが、わたしとしては綜合的・複合的な相手を研究するにあたってどこか一つに対象を限定するということはできませんでした。もちろん専門家としては対象を一つに限定してやっていたほうがそれとしての成果を上げるのが速いのですが、それではイスラームの本質は分からないと思いましたので、あえてそういう道は選びませんでした。
●イスラーム哲学・思想
そうした考えで次に着手したのは、哲学・思想関係でした。ハワーリジュ派というのは信仰と行為の関係、信仰は信仰だけで完結するのか、行為がなくては信仰は成り立たないのではないかという大きな問題を投げかけた流派でした。それは当然イスラームの中で新しい神学論争を呼び起こしました。それゆえにこれは「神学の始まり」と呼ばれています。
イスラームにはカラーム系、つまりイスラーム固有の哲学・思想派とファルサファ系、これは実際のところは複雑なのですが簡単に言えばギリシャ哲学的なものを受け継いだもの、この二つの流れがあるのですが、わたしは個人的に言えばカラーム神学の、とくに原子論のようなものに興味を持ちました。これは業績をあげるにはなかなか難しいところでして、その間、井筒先生の示唆もありまして先ずはガザーリーの『哲学者の意図』という作品の翻訳をしました。関連する研究書も少ないなかで初めて日本語に翻訳するのはなかなか骨が折れました。この本はガザーリーというカラーム系の思想家がファルサファ系の考え方を積極的に取り込もうとして書いた、後者の哲学の要約、概論のようなものです。同時にイスラームの哲学の流れを概観したアンリ・コルバンの大変有名な『イスラーム哲学史』も翻訳しました。
しかし哲学なら哲学の流れだけを追いかけていっても、ある意味ではイスラーム文化全体をとらえるところにはうまくつながらないようなところもあります。イスラーム文化というものは実にその構造が複雑なのですが、ただしその複雑な構造の中で専門家はきちんと分を知っていてその中のほんの一部しか口にしません。そうしますと本当のところはその専門家が言っているところと、その原構造・大きな構造というものを照らし合わせながら見ていかなければならない。
結局イスラーム文化・文明というのは外部の人にはわかりづらいのですが、そこに参加している人たちが、口にしないながらもお互いに共通して持っているものが非常に大きいのですね。そうしたなかである種の専門家は自分の専門の問題だけに関して議論を発展させるようなところがありますから、哲学の問題にしても神学の問題にしても、特定の哲学者がこう言ったからどうだというのではなく、それを今一度大きな枠組みの中に落とし込んで理解するというような理解の仕方が必要なのです。そうした事情がありましたので、ある哲学者個人について大きな本を書くという仕事はしませんでした。
カザーリーを中心としてそれ以前、つまり初期カラーム神学の考え方とか、それからガザーリー以降、これは井筒先生が発展させているのですけれども、モッラー・サドラーとか、そういうところに対してそれらを貫通するような関心を持ちたいと思っていますが、これはなかなか一人では大変な仕事です。ごく概観をなぞることしかできませんが、時と関心の赴くところに従って色々と研究は続けています。
●シャリーア(イスラーム法(行動規範・社会経済運営))研究
これら哲学の研究と同時にシャリーアの問題も多角的に見ていこうとしました。シャリーアとは「水場への道」という意味ですが、この考え方はイスラームの登場当初からあって、それ以後もあり続けるわけですけれども、それが体系化されていくのには結構時間がかかっていますし、その体系化のなかにその時々のイスラームの歴史的状況がずいぶん影響しています。何を体系化するか、何が体系化されるかというのは当時のイスラームの状況が大いに関わっているわけです。イスラームの力が強い場合には政治論のようなものもシャリーアのなかに色濃く織り込まれていますが、イスラームの政治性が傾いてくるとその方面よりはむしろ当時の生活に関係のある部分に細かな注釈がつけられるといったようなことがあるのです。
シャリーアの理解に関しては伝統的にこうした広い視野の理解のしかたではなくて、形成されたもの、既存のものは尊重するがそれ以外のもの(言ってみればシャリーアの運用過程とか人々がシャリーアをどう生きたのか)は尊重しないというような議論の風潮があって、ぶつ切りの専門蛸壺化した、分断的で孤立的な研究体制のようなものがありますが、わたしはやはりシャリーアの理解には政治の情勢も判断しながら、しかしそれを統合的に理解する必要があると考えています。政治論も入ってきますし、もちろん実定法的なものも国際法的なもの(シヤル)も入ってきます。そのように大きくとらえていって、その中である特定の時代・地方でどのような要素が特に、またどういうかたちで当時の社会に影響を与えたかと、そういうような分析をしていくべきだと思います。
シヤルというものは、いわゆる国際法にあたるものです。これはある意味ではオスマン朝の外交政策にも強い影響を与えているのですが、そういう事情に関する研究はほとんど目にしたことがありません。イスラーム世界の有為転変、毀誉褒貶とともにさまざまにその重要性は流動しますが、そういうものが厳然と存在していることは事実です。
法の問題は現存している法体系について精密に調べていくこともありますし、欠けている法や法意識を復元させるといった研究の方法もあると思いますが、今のところしなければならないのはそうした法意識なり具体的な法の総体が歴史社会の発展に具体的にどれほどの影響を与えたかということを検証していくことでしょう。
●イスラーム経済研究
法学的な要素が政治的社会的側面にどのような影響を与えてきたかということを、どこかの時代できちんと考えてみる必要があるという考えから、ここ十年ほどはそのひとつの道筋としてイスラーム経済に関心を持ち取り組んできました。
イスラーム経済というものはこれまで「そのようなものはない」と言われてきていたものです。イスラーム経済論というのは法学の一分野に入るのですが、法学全体が、オリエンタリズムの流れにおいては、机上の空論であって現実の文化・社会的な次元では何の役割も果たしていない、という位置づけをされていましたので、そんなことはないということを実証する試みに取り組んでいます。「イジュティハード(法的解釈)の門は閉ざされた」、つまりイスラーム法はある時代から時代の状況を踏まえた柔軟な発展をしなくなったと、ある時代に言われて、それ以降イスラーム法に属するものは全て具体的な政治世界では何の役割も果たさなくなったというようなことが定説になっていたわけですが、そのためにその方面の研究は全く行なわれてこなかったのです。しかしそれに対する問題提起は欧米でも始まっています。ここ十年、二十年のことですが。
それまでわたしはどちらかというと哲学とか法学とかいったものを理論的にやってきましたが、今度は視点を理論的・観念的なものが具体的な中東・イスラーム世界にどのような伝統的な足跡を残しているかということを検証するためにイスラーム経済というものをひとつのキー概念とするべきだと考えています。そのために、イスラーム経済について最も重要だと言われているムハンマド・バーキルッ=サドルの『イスラーム経済論』とか『無利子銀行論』などを訳しながら研究を進めてきました。
この十数年はそれを軸にして現地調査、端的にはシリアのアレッポのスーク(バザール、伝統的市場)の分析などを一つの具体的素材として、その周辺にある具体的な問題群、たとえばいわゆる伝統経済が庶民の経済活動にどの程度の比重を占めているのかとか、制度的にどのような特殊性を作り上げているのか、そうしたことを伝統的なスークという場における交渉、売買のあり方の特殊性のようなものを通じて分析しています。そのスークの経済のあり方は、いわゆる一物一価の交渉様式でなりたち、一々の商人が切り離されて孤立していて、しかもその商人たちの間に資本の多寡によって上下の差ができてくるような、そういうあり方ではなくて、資本の多寡にかかわらず、そこに参加している全ての商人・買い手が水平的に横につながっていくような市場の特殊性を持っていますが、この実際の有り様を割り出してきたのです。こうしたやり方はこれまでの研究にはほとんどありません。こうした市場の特殊性というのはそこの社会生活の特殊性にもつながっています。
個でありながら同時に複数である。このあり方は都市論にもつながっていきます。かの地には、伝統的な古い都市における中庭式の住宅が並んでいます。中庭式の住宅というのはどこにでもみられるわけですが、問題は、かの地のそれはずっと大規模に組織されていて、他からの隔絶と他への開放を同時に表現するような性格を持っているのです。それはただ単に中庭だけではなく、居住区のクオーターの構造にもつながっています。これは個人の家のあり方、小共同体のあり方だけではなく、イスラーム的なものが保障している共同体性のあり方そのものを示唆しているように思います。
そうしたことを色々な角度から分析するために、例えば経済的な側面ではギルドの問題もあります。ギルドというものは周知のようにある種の同業者が寄り集まって一つの自主的な小共同体を作り、そこで自由な、しかし公正を意図するような経済活動をその小単位で行なうもので、それが近代意識の萌芽につながったというようなことが言われています。そうしたギルドのようなものは中東世界にあるのかないのかと申しますと、これは中東世界にもあります。そしてそのギルドが担った役割ですが、イスラームの場合はこれが「市場」という単位で行なわれていると言っていいでしょう。ギルドという小さな部分が独立してその役割を果たさなくとも、市場全体がそういう役割を果たさなければならないという全体的な完結性を持っているのです。そういう性格もイスラーム世界の独特なところではないでしょうか。
集団形成にあたって、西欧ですと、王朝があって、諸国家が、似通っているかもしれないけれどそれぞれ違った法体系をもっているのですが、イスラームの王朝の場合には国が違っても法が同じですから、国の違いが決して法的な制度の違いに簡単にはつながらない。そういうところである種の一体性が保たれ、共同体性が維持されるようなところがあります。つまり、国が最高の権力機構ではなく、むしろイスラーム的な考えとかイスラームの法のようなものが最高のものであって、それに国という機構・体制が宿り木のように宿っているだけ、といったかたちです。それはいわゆる近代社会とは別な様相をしています。それがイスラームの文化・文明の特殊性であって、結局その特殊性を理解するためにはさまざまな切り口があり、どれを言えばそれで収まるということはないのですが、わたしとしては、伝統的な価値観がどのような社会体制、国家意識を作り上げていったかということを調べること(これが地域の伝統的な特殊性を勘案する上で一番重要なことですけれど)、それだけでことは済まず、それではそれが近現代の動きの中でどのような結果を生んでいるのかという問題につながると考えています。
そのさしあたりの結論のようなものは、お話すると長くなるのですが、世界中のどの地域も単独で自律することはできないわけでして、イスラーム世界も時代の趨勢に巻き込まれて、その構造性のなかに位置付けられるという事情があります。その観点からしますと、イスラームのシステムというのは、集中・独占というものに不適合なところがあります。時代が家内生産から工業生産となり、さらにIT化されていく時代、技術が発展する中で、イスラーム世界はその本源的な部分を固守しています。そうした意味でイスラーム世界の政治・経済的な遅れというものが指摘されますが、他方で忘れてならないのは、世界の流れの中で、例えば工業化された世界の中では人間の生活までも工業化されますし、IT化されている文化の中では人間の生活までもIT化されていって、それがさまざまな文明の障害をもたらしているということは明らかな事実であることです。
そういう情勢の中で、イスラームの価値観というものは一々の単位、一々の存在者、一々の人間の固有性を絶対に売り渡さないというところに真価があるわけですから、それが文明的にもさまざまな特殊性を依然として持ちつづけることにつながっています。そのおかげで西欧世界、近代社会が示しているものには乗り遅れておりまして、そういうものに何らかの対処をする必要は確かにあるのですが、その反面、最低限人間に必要なものをイスラームの文明が保ちつづけているということの持つ意味というのは、今まではさておき、今後、特に重要になってくるのではないでしょうか。このような観方をあまりにもオプティミスティックであると仰る方もいるのですが、世界の情勢を見ているとそれほどオプティミスティックではないように思います。そういったものの価値を再び見出すということに、むしろ先進世界は大きな課題を課されているように思います。
そうした観点に立てば、逆さまのかたちですけれども、中東・イスラーム世界が持っている特殊性の意味には簡単に捨てがたいものがあるのです。いまの中東世界におきましても、上層部においては、集中とか権力とかを維持する機構、代理の権力、つまりあるものの代わりに他者が行使する権力というものが同一律の拡大によって極めて特殊な状況をつくりだしていて、それによってそれぞれの個人が冒されている部分がでてきています。中東世界も上層部ではそうした代理のまずさのようなものが問題を引き起こしていますが、一皮むいていわゆる中から下、つまり隣人、家族という小共同体における有機体性、瑞々しさといったものは現にものすごい力で存在しています。そうした力強さというものが、例えばイラクの戦後の動向などにもあらわれていると思います。考えてみますと、民衆にはほとんど定期的な収入などはないわけでして、これは先進国ならばリストラの展開によって自殺者が増加したりするところですが、そういう方向にはいかないところの力強さを簡単に侮ってはいけないのではないかと思います。
言ってみれば公的レヴェルの脆弱さに対して私的レヴェルの豊かさ、それを支えているのは単なる個人の心情的なものではなく、むしろ世界観のようなものであって、差異的なものを尊重し、差異性にいつも心を致して、他者に対する侵害を極力拒否する。これは例えば「利子を取らない」というようなことにつながるわけですが、公共善というものが本来の意味で生き続けている。その生き続け方が国家的レベルではなく、一番下のところにしかないところが問題なのですが、しかしそれが脈々としてあるということ、これに対してイスラームの人々はものすごい自信を持っているのだと思います。私的、個的なものの尊重というものは、いずれわれわれ日本人や西欧人がどこかで再び問い直さなければならないことだと思います。
●現地生活の研究における意義
これまでに申しあげましたように、わたしは当初日本で充分に勉強する機会には恵まれませんでしたので、何も分からないときからエジプトに留学し散々苦労して日本に帰ってきたわけですが、それからすぐオイルショックがありました。日本政府がアラブ諸国に対して文化交流をしなければいけないという方向に動き出したとき、その第一弾で日本文化の紹介のためにエジプトのカイロ大学に行って日本語を教えるという役割を命じられました。そろそろ自分の個人的な環境を整えて仕事をしようと思っていたところだったのですが。しかしわたしにとってこれは僥倖だったのですが、派遣の主旨とは別にカイロ大学に日本の研究をするための学部を開設するということになりました。そしてエジプトに二年おりまして日本学科を開いたのです。その後イランでも文化交流で仕事をして欲しいという要請がありまして、イランでは日本の思想を教えておりました。
その後に国際大学に勤めることになりましたが、ここでは文部省の科学研究費もたいへん潤沢にいただき、豊富な研究資料を購入、蒐集するとともに、研究のためにシリアに赴きました。アレッポ大学では日本とアラブの文化交流センターを作っていただき、そこを拠点に先ほどご紹介しましたような研究を色々することができたのです。わたしとしてはエジプト、イラン、シリアの三つの地域にそれぞれ数年以上滞在したということが中東世界を理解するうえでとても役に立っています。
さまざまな文明のそれぞれの伝統と近代への向かい合い方は違っているのですが、それまでその国々に蓄積されてきた伝統的なもの、世界観なり倫理観、ひいては組織・制度のようなものが近代化の流れの中で確かに大分姿を変えているものの、しかし表面上はちょっと見えないだけで、一歩深く入ると伝統的なものが脈々と流れております。その種の事柄は本には書かれていないのです。この三つの国での生活を通じて、こうしたことをリアルに体験しました。この点についてはさまざまなミッションで中東世界で働いていらっしゃる方々と話しあいをしてみますと、「研究者の言っていることと実際と全然違うじゃないか」との声を圧倒的に耳にします。このようなコメントは、表層的なところから深層的なところまで言われます。
結局のところそれはどういう事情に由来するかと言えば、ヨーロッパ世界におけるオリエンタリズムというものがあって、自分自身の観点からしか対象を見ていない。欧米のメンタリティーというのはやはり他者を対等に理解するということに不向きであると残念ながら言わざるを得ない。もちろんその角度から優れた、透徹した解釈や理解は提出されておりますが、本当に対象に固有の感受性、感性、思想といったものに則して理解しているかどうかと言えば、これはその限りではないのです。こうしたわけで、われわれのやらなければならないことは山のようにあるのです。
ところで中東・イスラーム研究は伝統的に、乱暴に括れば欧米系のものばかりでなく、いわゆる国学としての現地のものがあります。この「国学」のほうは互いに言わずもがなの共通項を持っていて、そこで土俵を同じくして研究を進めています。ところでわれわれ外部の者にとっては歴史的な環境も違えば、伝統、常識も違っています。したがって現地のものをただそのまま訳したり、移し変えたりしても、日本の研究者、読者に通用しないところが多々あります。このごろでは現地の人々の中にも、外の世界に向けてそれに相応しいようなかたちで自文化を紹介している例がありますが、それはそれで受け手側に捉え方が任されているような手法のものが多く、隔靴掻痒の感も拭えません。
そこでわれわれ受け取り手が、主体的に相手に求めていくという態度が必要だと思います。現地の人々のディスカッションを、われわれにとって意味のあるかたちで纏め上げていくような道が求められているのです。共通項のないところにただ論文のようなかたちで送り出しても、専門家の自己満足のようなことになりかねず、これでは現地の文化に直に触れることのない日本の人々に、相手についての深い、正確な認識を与えることにはつながりません。権威ある者のごとく、「これが中東・イスラーム世界である」といった言説が大流行の時代に、それを批判的に検証、摂取する手立てがないのですから、どうしても丁寧な解説のついた価値ある著作の翻訳、優れた解題が必要だと思います。とにかく現地の香りのする研究、紹介が極めて少ない。この大文明には、まだまだ教えられることが山のようにあるのですが、認識なしの判断の域を脱するために、いまだにこれほど多くのものが取り残されていることには、少なくとも一人の研究者としてはむしろ大きな幸せを感じています。
●主要著作翻訳活動
- 1974年 コルバン『イスラーム哲学史』(共訳・フランス語・岩波書店)
- 1976年 ワット『イスラーム・スペイン史』(共訳・英語・岩波書店)
- 1975年 ナスル『イスラームの哲学者たち』(共訳・英語・岩波書店)
- 1977年 ハズム『鳩の頸飾り』(訳・アラビア語・岩波書店)
- 1978年 カナファーニー『太陽の男たち』(訳・アラビア語〔パレスティナ小説〕・河出書房新社『現代アラブ小説全集7』所収)
- 1978年 サーレフ『北へ遷りゆく時』(訳・アラビア語〔スーダン小説〕・河出書房新社『現代アラブ小説全集8』所収)
- 1980年 『イスラームの心』(著・中公新書)
- 1983年 『イスラーム辞典』(編著・東京堂出版)
- 1985年 ガザーリー『哲学者の意図――イスラーム哲学の基礎概念』(訳・アラビア語・岩波書店)
- 1987年 『地域研究の方法と中東学』(編著・三修社)
- 1988年 『イスラーム経済』(編著・三修社)
- 1990年 『共同体論の地平』(編著・三修社)
- 1991年 『イスラームの反体制』(著・未来社)
- 1993年 バーキルッ=サドル『イスラーム経済論』(訳・アラビア語・未知谷)
- 1994年 バーキルッ=サドル『イスラーム哲学』(訳・アラビア語・未知谷)
- 1994年 バーキルッ=サドル『無利子銀行論』(共訳・アラビア語・未知谷)
- 1996年 ガーバー『イスラームの国家・社会・法』(訳・英語・藤原書店)
